聖書=詩編130編1-4節
【都に上る歌。】
1 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。
4 しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。
今回は旧約聖書・詩編130編1-4節を取り上げます。この詩は古代教会以来、7つの悔改めの詩編(6,32,38,51,102,130,143)の1つとされてきました。宗教改革者ルターが、この詩を最上の詩編の1つに数えた秀れた祈りの詩です。
詩の作者は「深い淵の底から」、「主よ」と神に呼びかけています。「深い淵の底」を滅びの比喩と理解して死人のいる地下の「陰府」と訳す人もいます。字義的には「深い所」です。この言葉は水と関係すると言われ、深い水の淵に突き落とされている、望みなき淵に落とされているような絶望の状態を指しています。神から見放された世界、神が遠いところにいると感じるような状況と言っていいでしょう。その中から、詩人は神に叫ぶのです。「主よ、あなたを呼びます」と。「呼ぶ」と言う穏やかさではなく、呻き叫んでいるのです。
「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と。3節に「罪」という言葉が出てきます。共同訳では「過ち」と訳します。新改訳2017は「不義」と訳し、口語訳は「もろもろの不義」と訳しました。口語訳が適切な訳語です。詩人は今、自分が深い淵の底に突き落とされ、祈りと嘆願が聞かれないのは、自分が犯してきた多くの罪「もろもろの不義」にあることを知っているのです。
神は聖にして義なるお方です。聖と義である神という視点から見るならば、だれであっても神の前に立つことは出来ません。神の目はわたしの中にある多くの罪を見つめ、記憶しているからです。滅びる以外ありません。詩人は自分のもろもろの不義に目を止めています。悔い改めは自分の不義に目を止めるところにあります。
旧約の預言者イザヤは、聖なる神に接した時「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(イザヤ書6:5)と叫びました。新約の使徒ペトロはイエスの神の力に接した時「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5:8)と言ってひれ伏しました。詩人も「主よ、誰が耐ええましょう」と呻き嘆くのです。
しかし、この自分の中にある深い罪の自覚、罪の意識の中で、なお神に叫び続けます。「しかし、赦しはあなたのもとにあり」と。これこそ、詩人の祈りの根拠です。神が聖であり義であるというだけなら、だれも神の前には立てない。しかし、神には赦しがある。神は、不義な者を義としてくださる神であるという確信が、この詩人の祈りの根拠です。この確信の元に赦しを祈り続け、望みつつ待つのです。
この詩編130編は、極めて新約的な詩と言っていいでしょう。神を裁く神として理解するのではなく、「罪を赦す恵みの神」として理解して、深刻な自分の多くの罪を自覚して赦しを求めているのです。この詩の後半部(7,8節)では「豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる」と「罪の贖い」に言及します。この詩人の視線はイエス・キリストの十字架の贖いと赦しの恵みを仰ぎ望んでいるのです。
この神による罪の赦しは、人の新しい生を産み出します。赦されて「人はあなたを畏れ敬うのです」と語ります。「神を畏れ敬う」とは、神礼拝とそれに基づく新しい生活の在り方です。神による罪の赦しは、人を新しく生かす力を産み出すのです。