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第290回 平凡に生きる幸い

聖書=詩編131編1-3節

【都に上る歌。ダビデの詩。】

1  主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

2  わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。

3  イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。

 

 今回は旧約聖書・詩編131編からお話しします。この詩は3節しかない短い詩で注目されることの少ない詩です。「ダビデの詩」となっていますが、むしろ人目につかない形で老年を迎えた賢者の知恵の詩です。

 この詩編131編について、ある注解者は「これは円熟した信仰者の産みだした作品で、詩編の中で最も美しい詩に分類される。へりくだった神信頼の微妙な調べの音が、沈み行く太陽の最後の光線が柔らかな光で満たしている静かな谷間に夕べの時を告げる平和な鐘のチャイムのように響いている」と記します。

 この詩人は、柔和でおとなしい人柄であったから、このような穏やかな歌を作ったと言うよりも、生来は激しい性格の人であったのではないかと推測します。その激しい性格の人が長い信仰の戦いと忍耐の人生経験によって謙遜と深い神信頼とを身に付けていったのだろうと推測できます。

 詩人は「主よ、わたしの心は驕っていません」と語ります。自分で「我が心、驕らず」と語るのは変な感じをしますが、これは詩人の内なる決意と言っていいのではないでしょうか。詩人は「わたしは」と言います。わたしは決して高慢不遜にはならないぞという自覚です。

 「わたしの目は高くを見ていません」。「Boys, be ambitious!」(青年よ、大志を抱け)というクラーク博士の有名な言葉があります。この詩人の言葉とは対照的な言葉と言っていいでしょう。詩人は、自分は高嶺を目指さないと言っているのです。詩人も若い時には、大いなる野望をもって高みを目指して激しく生きたのではないでしょうか。しかし今、その虚しさに気付いたのです。

 「大きすぎることを、及ばぬことを…追い求めません」と言います。多くの人は自分を「大きく見せよう」とします。学歴を誇り、学位を誇り、キャリアを誇ります。政治家などは偽りの学歴を騙る人もいます。自分を偉大な人間であると大きく大きくフレイムアップします。詩人はそんな虚勢を張ることはしないと語るのです。

 「わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と語ります。「わたしの及ばぬ驚くべきこと」とは、自分の能力以上のことが出来ると必要以上に見栄を張ることです。わたしにはこんな才能がある、知恵があり、力があると自慢し見せかけます。それに対して、詩人は自分の及ばぬことには手を出さないと自制を語るのです。

 詩人は「わたしは魂を沈黙させます」と語ります。共同訳では「私は魂をなだめ、静めました」と訳します。「なだめ」とは地面のデコボコを整えて平らにすることで、「静めました」は沈黙することです。この詩人の本来の性格・性質は温和、柔和と言うよりも、野心に富み才能を鋭利に研ぎ澄ませて生きてきた。しかし、長い人生の歩みの中で挫折を経験し、必死に高嶺を目指すような生き方の中に虚しさを見出したのです。野心的に生きる道とは違う、心の穏やかさの価値に気付いたのです。「平凡に生きること」の大切さとその価値を発見したと言っていい。

 「わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と語ります。この「幼子」は、文字通りに訳すと「十分に取り扱われた子」と言う意味を持っています。母親から十分な授乳を受けて静まり、安息している赤子の姿、満足している状態を示す言葉です。神の恵みの中で充足している姿です。平凡に生きることは、神の恵みの中で満ち足りて生きることです。

 詩人は、最後に「イスラエルよ」と呼びかけます。神の民への呼びかけです。「主を待ち望め」と語ります。これは詩人自身が体験した謙遜、忍耐、満足を神の民イスラエルに勧める言葉です。神が生きて働いてくださいます。神のなさることを忍耐をもって待ち望むことを勧めているのです。これが「今も、そしてとこしえに」真実な生き方なのです。