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第291回 わたしを知っておられる主

聖書=詩編139編1-6節

【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】

1 主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。

2 座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

3 歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。

4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。

5 前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。

6 その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。

 

 今回は旧約聖書・詩編139編1-6節からお話しします。長い信仰生活をしてこられた教会員がいました。ある時、その方が「この歳になって、ようやく神様が一緒にいてくださる、ということがよく分かりました」と言いました。この方は、夫の飲酒と乱暴に耐えかねて緊急避難のように教会に逃れてきました。教会に来ている時だけ夫の暴力や罵りから逃れることが出来た。自分はなんて不幸な人間だと人を恨み、あれもこれも見るものなんでも神などいない証拠のように思えた。しかし「今、振り返ってみて、どんな時にも神が自分と一緒にいて、自分を守っていてくださったと分かるようになりました」と証しされました。

 詩編139編の作者は、ユダの王ダビデとされています。ダビデも辛い体験を繰り返した人でした。他国に逃れたり、自分の子に背かれて王位から追われたこともありました。けれど、晩年になり振り返って、彼は確信したのです。神が一緒にいて自分の歩みをしっかり守っていてくださった、と。

 詩の作者は、神が「わたし」という人間をよく知っておられると歌います。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」。「知る」とは愛情の行為です。神は愛の眼差しでわたしにじっと目を留め、わたしを見つめてくださいます。「座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる」と語ります。

 「座る、立つ」という言葉で日常のわたしの生活を表しています。神の「知る」「知っておられる」とは、わたしを調査して裁くためではありません。わたしを愛するゆえに、わたしの毎日の営みを「知る」のです。親が巣立っていく我が子の行方をジッと見つめるように、神はわたしを暖かく見つめておられるのです。

 神は、わたしの生活の外側だけでなく、わたしの心の中の思いも深く知っておられます。「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに」と言います。わたしが人に打ち明ける前に、神はわたしが何を考え、何を悩み、どんな辛い思いをしているか、よく知っていてくださいます。人には将来のことは分かりません。こうしよう、ああしようと考えて、悩み、不安になる時もあります。その時に、神はわたしの選択する道、将来へと歩み出す道も知って備えてくださいます。

 知るだけではありません。「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる」のです。神が、わたしを知るのは、わたしを造り、生み出してくださったからです。母親が我が子の歩みを知るのは子を守るためです。そのように、神はわたしを知り、わたしを囲み、守り、御手を置いてくださいます。

 「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださいます」と歌われます。わたしが動き回る前後左右、上も下もすべての方向から、神の御手がわたしを暖かく包み、守っていてくださいます。「わたし」は、神の豊かな保護の中で生きているのです。いつも神の守りの中に置かれています。わたしの性格をよく知って、わたしの行く先々に先回りしてくださいます。この恵みの事実を、ダビデはしっかり受けとめて、感謝し、賛美しているのです。

 神が「わたしを知る」のは、わたしの行く道を導き、守るためです。先回りして守り抜いてくださる恵みの道筋は、わたしの理解をはるかに超えて「あまりにも高くて到達できない」と、詩人は神の知恵を賛美しています。わたしたちの人生は神の恵みの御手によってしっかりと守られているのです。