· 

第292回 わたしを組み立てられた主

聖書=詩編139編13-18節

13 あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。

14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。

15 秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。

17 あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。

18 数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。

 

  今回は旧約聖書・詩編139編の後半13-18節を取り扱います。前半は、神が愛をもって「わたし」を深く認知し、御手をもって守り抜くことが歌われました。後半は、その「わたし」と神との関わりがどこから始まったのかが物語られています。わたしと神との関わりは、いつから始まるのでしょうか。自分が神を意識した時、信仰者としての歩みを始めた入信の時を考えます。自分が神を信じるに至った恵みの時を思い起こし、初心に戻り信仰の姿勢を整え直すのではないでしょうか。

 大切なことですが、詩人は全く違った面から、わたしと神との深い関わりについて物語ります。「知る」とは最も深い愛情の行為です。深い愛に根ざす事柄です。「わたし」が母から生まれる前から、神は「わたし」を知り、「わたし」に関わっていたという事実です。神とわたしの関わりを「わたしの自覚」という視点で理解するのではなく、わたしという人間の生存の発端である誕生の時から、否、さらにさかのぼり、まだ母親の体内に形成されていない先から、神は「わたし」を認知し「母の胎内にわたしを組み立ててくださった」という根源的な関わりです。

 「わたし」が、わたし自身を自覚するよりはるか以前、母の体内に形造られる前から、神は「わたし」を存在へと呼び出し、関わりを持っておられたのです。「父母未生の先から」と言ってもよい。ここに語られているのは神の永遠の計画です。ここに根元的な関係があるのです。神は御心の計画に基づいて「わたしの内蔵を造り」「わたしを組み立て」たのです。

 「秘められたところでわたしは造られ、…織りなされた」。そのゆえに「あなたには、わたしの骨(一本一本)も隠されてはいない」。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから」。オギャーと生まれる前から、神の暖かな愛の視線がわたしに注がれ、世の戸籍に登記するよりも先に「神のいのちの書」に登記されていたのです。

 神のご計画による「わたしのいのちの創造」から始まる神の計らいについて、詩人は歌います。「いかに尊いことか」、「いかに数多いことか」、「 数えようとしても、砂の粒より多く」数え尽せません。「その果てを極めたと思っても」極め尽すことも出来ません。「わたしはなお、あなたの中にいる」のです。人の卑小さゆえに極め尽すことが出来ないだけでなく、無限の恩寵の中に包まれているのです。

 わたしたちの信仰を底支えするのは、このような神との関わりを理解する時ではないでしょうか。人生の中で、信仰も衰え、時に不信仰になることもあります。祈りを忘れることもある。高齢になり認知症になる時、自分が信仰者であることも分からなくなり、祈りも出来なくなります。では、救いは失われるのでしょうか。

決して失われません。

 わたしたちは不信仰も恐れてはならない。信仰的自覚に救いの基盤を置くならば、不信仰は神との関わりの切れ目となります。しかし、この詩人が歌うように、生まれる前から神の御心の中にある「わたし」を理解するならば、不信仰を恐れる必要はありません。本当の平安が与えられるのです。

 神は、わたしの失敗も嘆きも罪も知っておられ、赦しがあるのです。イエスは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(ルカ福音書12:7)と言われました。パウロは「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ書8:39)と語ります。わたしのすべてが神によって知り尽くされている。ここで救いは確立します。わたしは神の御手の中に受け止められています。この御手の中で安んじて生きることができるのです。