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第294回 悪より救い出したまえ

聖書=詩編141編3-5節

3  主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。

4  わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって、悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。

5  主に従う人がわたしを打ち、慈しみをもって戒めてくれますように。わたしは油で頭を整えることもしません。彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。

 

 今回は旧約聖書・詩編141編3-5節を取り上げます。この詩編141編は2節の「夕べの供え物としてお受けください」という文言から「夕の礼拝の歌」とされてきました。「使徒教憲」という古代教会の礼拝の指針の中で「毎日、朝夕集まって、主の家で詩編を歌い、祈りをしなさい。朝は詩編62編を、夕には141編を唱え、特に安息日にはそうしなさい。夕になると、教会員を集め、灯を点火するときに、かの詩編を繰り返しなさい」と記されています。この詩は、それだけでなく強烈な時代批判の詩でもあります。

 この詩は、悪を行う者に取り囲まれながらも、物理的・外形的な助けを求めるのでなく、自分が心と言葉と行いにおいて悪の誘惑から守られ、ひたすら神に心を捧げ尽くせるようにという祈りです。イエスが、あなたがたが祈る時には「こう言いなさい」と言って、「主の祈り」を教えてくださいました。その主の祈りの中に「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りがあります。この主の祈りの解説のような詩であると言っていいでしょう。

 詩人は、罪の誘惑に勝てるようにと祈ります。「主よ、わたしの口に見張りを置き、わたしの唇の戸を守ってください」と。わたしたちの罪の多くは言葉から始まります。言葉の罪の問題を採り上げるのは新約のヤコブ書です。ヤコブは「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」と語り、「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」(ヤコブ書3:2-10)と言葉の罪を指摘します。

 詩人は、この舌の罪・言葉の罪は心の問題であることを自覚しています。「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください」と祈ります。罪から守られるために、城を守るような番兵を置いて「心」を守って下さいと願います。言葉は心の中にある思いから出てきます。その思いが守られるようにと祈るのです。

 さらに「悪事」は取り巻く仲間にもよります。「悪を行う者らと共にあなたに逆らって、悪事を重ねることがありませんように」と祈ります。どんな仲間に入るかによって人生は変わります。新共同訳は「彼らの与える好餌にいざなわれませんように」と訳します。「好餌」とは豪華な宴会を意味します。共同訳は「彼らの差し出すごちそうを食べることがありませんように」、新改訳2017は「わたしが彼らのごちそうを食べないようにしてください」と具体的に訳しています。悪しき者たちの仲間になって豪華な食を楽しむような者にならせないでほしい、という祈りです

 彼ら悪しき者とは上流階級の祭司たちのようです。「わたしは油で頭を整えることもしません」。分かりにくい翻訳です。「油で頭を整える」とは、毎日の頭皮の手入れではありません。祭司としての「油注ぎ」を指しています。共同訳は「悪しき者の油が私の頭に塗られることがありませんように」と訳します。油注ぎは祭司としての任職を指します。重大な決断の祈りです。任職拒否の祈りなのです。

 悪事に荷担するくらいなら、わたしは断じて祭司の仲間にはならないぞ、という決意の祈りです。自分は祭司になれる家系、資格を持っている。しかし、「彼らが悪のゆえに祈りをささげている間は」、彼らが悪事をしながら祭司としての務めをしている間は、その仲間にはならないぞと言う任職拒否の祈りなのです。壮絶な祈りと言っていい。それほど、当時のイスラエル、ユダの国の事情は悪しき状況であったと言っていいでしょう。この詩人のような覚悟が、今日のわたしたちにあるでしょうか。