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第298回 信頼して神を待つ

聖書=ハバクク書2章1-4節

わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

 

 待降節の中にあります。旧約聖書・ハバクク書2章1-4節からお話しします。ハバククは、エレミヤと同じ紀元前7世紀頃の人です。この時代、南王国ユダの人々はおびえて生きていました。世界最強の軍事大国バビロニア帝国の軍隊が近づいていたからです。ユダの人々は、バビロニア軍のラッパの音、軍靴の響きが今にも聞こえてくるような恐怖の中で生きていました。

 その緊迫した状況が、ハバクク書2章の背景です。ハバククは神に祈ります。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。ハバククは歩哨のように物見櫓の上に立っています。人々が右往左往している様が見えます。恐怖でうろたえ走り回っています。

 預言者は物見櫓の上で神に祈ります。その祈りは民の救いでした。救いはあるのか。助けはあるのか。生きる道があるのか。民の苦悩を受け止めて祈り訴えます。その祈りに神は応えてくださいました。神は語られた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。…もうひとつの幻がある。それは終わりの時に向かって急ぐ。…遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。…神に従う人は信仰によって生きる」と。

 「幻」で、2つのことが命じられました。1つは書き板を用意しろです。大きな書き板、広告板を用意しろ。だれでも、遠くからでも読めるように、うろたえ走りまわる人でも読めるように大きな広告板を用意しろ、と。

 2つは、その広告板にこう書けと言われた。「神は、救いの時を定めている。その時は、必ず来る、遅れることはない。待っておれ。この神のことばに信頼するならば、生きる」と書け、と言われました。「終わりの時」とは、神が定めた救済の時です。神は民の救いを計画している。その時を忍耐して待て。この言葉に信頼するならば、その人は生きるのだと言われたのです。

 待降節とは、イエスの降誕を待つ季節、救い主の誕生に向かって心を高めていく準備の時期です。教会でも、家庭でも、個人的にも、クリスマスの心備えをしていきます。ハバククは「終わりはもう定められている」と言います。その時に向かって歴史は急いでいる。「たとえ遅くなっても、待っておれ」と言います。「定められた時」「終わりの時」とは、まさにメシア・キリストの到来です。救いの時が来る確かな約束が語られているのです。

 ハバククの語った通りになりました。神の御子は人となり、十字架で贖いをしてくださいました。旧約の人々は、この時を「待ち続けました」。旧約聖書を貫いているのは「待つ」ことです。ハバククは神の救いの時は遅くならない、待っておれと語った。その待つ歴史の中で、イエス・キリストの降誕があるのです。待つことは決して空しいことでなく、確かに神の約束が実現したのです。それがキリストの誕生なのです。

 実は、わたしたちも待つのです。待つ人々の列の中に、わたしたちもいるのです。救いの完成は終わりの時を待たなければなりません。今、世界はハバククの生きた時代と同じです。恐怖が世界を覆っています。日本は、世界はどうなっていくのか、全く分からない。各地で戦争が起こり、人の心はささくれ立ち、憎しみが増大しています。この中で、わたしたちは希望をもって終わりの完成の時を待つ者です。

 信仰とは「待つこと」であると言っていい。信仰だけのことではありません。母親は生まれた子が成長し成人する日を待ち望みます。命の成熟・成長のためには、時をかけて待たなければなりません。あせったり、無理をしたら、命はゆがみます。時をかけて待たなければなりません。神の言葉に信頼して待つことが信仰であり、この信仰によって人は生きるのだと、ハバククは語っているのです。