聖書=マルコ福音書1章2-4節
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
今回はマルコ福音書1章2-4節からお話しします。講演などで出かけると、話を始める前に「講師紹介」ということがなされます。ここに記されている事柄は、この講師紹介と言っていいでしょう。この福音書の主要登場人物であるイエスが「このような方ですよ」と紹介されているのです。
実は、この講師紹介には念が入って二重になされているのです。最初に、旧約聖書イザヤ書の言葉が引用されて洗礼者ヨハネが紹介されます。そして次に、洗礼者ヨハネによって「わたしよりも優れた方」として主イエスが紹介されるのです。極めて入念な二段構えの講師紹介の手続きと言えます。
「預言者イザヤの書にこう書いてある」と記されていますが、実は旧約の二個所の合成句になっています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」まではマラキ書3章1節からです。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」が、イザヤ書40章3節からです。それを預言者イザヤの言葉として1つにまとめているのです。
「わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を…」で、「あなた」と言う言葉で呼ばれているのは、主イエスのことです。主イエスの登場に先立って、神は使者を遣わして、あなた(イエス)の道を準備させるというのです。それが「荒れ野で叫ぶ者の声」です。この「声」が直接的には洗礼者ヨハネを指しています。
「荒れ野で叫ぶ」とは、どういうことでしょうか。洗礼者ヨハネは、砂漠や荒野ではなく、主にヨルダン川の岸辺で活動していたようです。それを「荒れ野」としています。「荒れ野」という言葉で語ろうとしているのは都会ではないということです。王や祭司などの上流階級の人たちが住む華やかな世界ではありません。実際に「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と記されています。世俗の栄光に背を向けた世界です。
旧約の預言者マラキ(前五世紀の人)を最後にして、イスラエルには預言者の活動は久しく絶えていました。預言者の語る神の言葉が絶えていたのです。しかし今、華やかな世界に背を向けた世界、荒れ野で預言者の語る神の言葉が再び語り出されたのです。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と。旧約の預言者イザヤの言葉が、マラキの言葉が、生き返りました。旧約預言者たちの伝統を引き継いで、預言者たちの語った「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。洗礼者ヨハネは、旧約の多くの預言者たちの伝統を引き継いで、主イエスの登場を世の人々に紹介して道備えをするのです。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われました。洗礼者ヨハネによって、主イエスのために整えられた、その道筋は歩き易い整った「まっすぐな道」、平坦な道だったのでしょうか。決してそうではありません。わたしたちは誤解してはなりません。洗礼者ヨハネ自身が「荒れ野」で語ったのです。ゴツゴツした石ころの転がる岩山、激しい急流のヨルダン川の岩石が剥き出しになっている岸辺です。人が歩きやすく舗装された一直線の道などではありません。
洗礼者ヨハネによって整えられる道とは、主イエスの十字架への苦難の道であったのです。罵られ、あざけられて十字架を担う道がまっすぐに整えられていたのです。それは、旧約の預言者たち、とりわけイザヤが語った「苦難を受けるしもべ」の歩む道でした。洗礼者ヨハネの指し示す主イエスの苦難の歩みを、わたしたちも一緒に見つめてまいりましょう。そこに救いがあるのです。