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第306回 誘惑を受けた主イエス

聖書=マルコ福音書1章12-13節

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 

 今回はマルコ福音書1章12-13節からお話しします。小見出しに「誘惑を受ける」とあります。主イエスがサタンから誘惑を受けた出来事が簡略に記されています。この出来事は主イエスの洗礼直後の出来事として、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に共通して記されています。この出来事は、どういう意味を持っているのでしょう。一言で言えば、救い主としてのイエスのテスト、チェックと言っていいでしょう。

 共同訳では「それからすぐに」と訳しています。洗礼後ただちにです。聖霊は「イエスを荒れ野に送り出した」。共同訳は「追いやった」と訳します。荒れ野の誘惑は偶々起こったことではなく、聖霊が強制的に主イエスを荒れ野に追いやったのです。父なる神の意志と聖霊の導きの結果です。

 「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」。「40日間」とは、モーセが十戒を受け取るためにシナイ山に留まった期間、イスラエルが荒れ野を彷徨した40年間を表すとも言われています。マタイ福音書では「四十日間、昼も夜も断食した」と記されています。空腹になります。そこで、「サタンから誘惑を受けられた」のです。

 「サタン」は、誘惑者であると共に「試みる者」です。サタンは、最初の人アダムとエバを誘惑して罪を犯させました。再び、サタンは人となられたイエスを、ここで試みたのです。その試みの内実は、マタイ福音書4章とルカ福音書4章に記されています。それらの個所も参照してみてください。

 人は、弱さを持ちます。また、欲望も持ちます。空腹になると、人は罪を犯しやすい。何人もそれを責められません。また、アダムとエバが経験した食欲、目の欲、知の欲、権力欲などに捕らえられてしまいます。むしろ、それらの欲望が人の生き方を決めるのです。人を押しのけて、自己の欲望のままに生きる。これが堕落後の人の基本的な生き方となりました。罪の世界です。

 主イエスも人となられて、この罪の欲望の世界を知っていました。「その間、野獣と共におられた」とは、文字通りの野獣(野の獣)と理解することも出来ますが、サタンの支配下で闇の世界にうごめく誘惑の多いこの世を意味する言葉です。

 主イエスは、「四〇日間そこにとどまり」ました。サタンと闇の世界の誘惑の中で生きたのです。その誘惑と激しく戦ったのです。主イエスは、巨大な罪の世界と罪の誘惑の力を知らないのではありません。サタンと罪の誘惑に対してしっかり戦って勝利されたのです。救い主としてのテスト、チェックに合格したのです。

 今日のわたしたちも、サタンと罪の誘惑との戦いの中に置かれています。いつも誘惑との戦いの渦中に置かれています。その時、この戦いに勝利された主イエスがおられることを知って、主イエスを見上げて信仰の戦いに勝利してまいりましょう。

 ルカ福音書4章13節に「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と記されています。主イエスは、サタンのすべての誘惑に打ち勝たれました。その主イエスの勝利を支えたのが天使たちの奉仕です。「天使たちが仕えていた」と記されています。主イエスは、サタンの誘惑を「人として」受けられました。弱さを持つ人間、これはイエスも例外ではありません。人としての弱さを持つ存在がサタンの誘惑に打ち勝つには、神の助けなしではありえません。

 主イエスの誘惑との激しい戦いを、父なる神は傍観していません。天使たちを送ってその戦いを支えていたのです。このことは、主イエスだけではありません。わたしたちもまた主イエスと同じように、サタンと闇の力との戦いの中に置かれます。わたしたちの生活は、罪と弱さとの戦いであり、多くの欲望との熾烈な戦いです。その戦いの渦中にあるわたしたちを、神は天使を送ってしっかり守り支えてくださいます。主イエスを見上げ、神の守りを確信して、信仰の戦いを闘い抜きましょう。