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第307回 悔い改めて福音を信じなさい

聖書=マルコ福音書1章14-15節

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 今回はマルコ福音書1章14-15節からお話しします。主イエスの救い主としての生涯を「公生涯」と言い、洗礼を受けたところから始まりますが、実際的にはガリラヤ伝道からが伝道活動の始まりです。この個所から救い主としての主イエスの伝道活動が始まります。

 「ヨハネが捕らえられた後」と記されます。他の福音書の記述を見ると、洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕らえられ殺されたのはもう少し後のことになります。しばらく洗礼者ヨハネの活動と主イエスの活動が平行して行われていたようです。しかし、福音書記者マルコは、洗礼者ヨハネはイエスの紹介者であるとして主イエスの洗礼をもってヨハネの活動の終止と見ています。

 「イエスはガリラヤへ行き」と記されます。「ガリラヤ」は広い地域の名です。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」(マタイ福音書4:15)と言われて、異邦人が多く住むところでした。しかし、ここではカファルナウム、ティベリアスなどのガリラヤ湖近辺を指して、主イエスの初期の伝道の地でした。

 ガリラヤ湖畔で、主イエスは伝道活動を始めました。「神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。初期のガリラヤ伝道を要約した言葉で、主イエスの宣教がこの一言で言い表されています。主イエスの宣教は「神の福音」の宣べ伝えで、その内容が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うことです。「福音」とは、良い知らせ、よき音信です。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(イザヤ書40:1)という、神からの慰めの言葉が語り出されたのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた」。「時が満ちる」とは、神が定めている救いの時が来たということです。神は、アダムの堕落以来、人の罪を贖い、人を救う計画をお立てになり、それを約束してくださいました。それが旧約の長い歴史でした。ノアに、アブラハムに、ダビデに、旧約の預言者たちに啓示し約束してきました。また幕屋や神殿の儀式を通して神の救いの恵みを具体的に現してくださいました。この長い啓示と約束の時が満ちて、神の救いが実現する時が「満ちた」のです。

 それが「神の国の到来」です。「近づいた」とは、まだ遠くにあるというのではありません。「到達した、到着した」という意味の言葉です。今、ここに神の国は来ている。主イエスがこの地に来たことによって神の恵みの支配が到着したのです。神の国は、地上の国家のようなものではありません。神の恵みの支配です。アダムの堕落以来、この地は神の造られた世界でありながら、罪と悪が闇の力として支配し続けてきました。これに終止符が打たれたのです。罪が贖われ、赦しが与えられ、神との間に平和がもたらされる時が来たのです。

 神の恵みの支配は闇の支配をくつがえします。神の裁きがなされるからです。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」(詩編82:2-4)と、命じられた救出の出来事が起こるのです。神の恵みの支配は逆転、革命とでも言える出来事です。

 マリアの賛歌が「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」(ルカ福音書1:51-54)と歌うとおりです。

 その故に、主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と語りかけるのです。「悔い改め」とは神に立ち帰ることです。神に立ち帰って、神の恵みの支配を喜び、受け入れ、その中で生きるのです。これが、主イエスが宣べ伝えられた福音です。わたしたちも神に立ち帰って、神の恵みの支配の中で生きようではありませんか。