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第308回 わたしについて来なさい

聖書=マルコ福音書1章16-20節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 

 今回はマルコ福音書1章16-20節からお話しします。主イエスの最初期の弟子の召命の記事です。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」のことです。主イエスの福音宣教、伝道活動の中での出来事です。ここに登場する4人の漁師は主イエスの語る福音のメッセージを何度か聞いていたでしょう。初対面ではなかったようです。そのため、主イエスの招きに素直に聞くことが出来たのです。

 ガリラヤ湖は豊かな淡水湖です。テベリヤ湖、キネレテ湖とも言われ、ヘルモン山から発する水がヨルダン川となりガリラヤ湖に注ぎ、さらに下流のヨルダン川に流出しています。湖は長さ21キロ、幅12キロ、三方を丘陵に囲まれ、荒地の多いパレスチナでは美しい景観を呈しています。ガリラヤ湖近辺の地は肥沃で多くの農産物を産し、湖にも多くの淡水魚が生息して、漁師たちの生活を支えています。

 主イエスは湖畔を歩きながら一組の兄弟に目を留めます。「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」。早朝です。漁は未明から夜明けまでの短い間です。船に乗っていたのかどうかは分かりません。地引き網漁みたいなものだったかもしれません。シモンとアンデレの二人は網にかかった魚を整理していたのかもしれません。忙しく働いていたところです。

 その時、主イエスが通りかかり、彼らを見つめて声をかけました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。唐突と言えば唐突です。彼らも主イエスの説教は何回か聞いていたでしょう。しかし、何の用意もありません。考えて備えていたわけではありません。しかし、主イエスは唐突に「わたしについて来なさい」と命じられたのです。

 もう一組の兄弟も同様でした。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり」ます。ヤコブとヨハネの兄弟です。二人は網の繕いをしていました。漁を終えると、必ず網を繕い、次の漁のために準備しておかねばなりません。作業中の彼らに語りかけたのです。

 主イエスは、ここでも彼らを「ご覧になり」ました。「ご覧になる」とは、ただボーと見るのではありません。しっかりと見る。見抜くと言っていいでしょう。そして、「すぐに彼らをお呼びになった」のです。ここでは、呼びかけの言葉は省略されていますが、前のシモンとアンデレの二人にかけたのと同じ言葉「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」が語られたでしょう。

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、二組の兄弟を、主イエスは最初の弟子として召し出したのです。神の召しは突然です。人間的には何の準備もないところで、主イエスは人を選んで神の奉仕者として召し出すのです。アブラハムもそうでした。エレミヤもそうでした。人間的な都合や基準、備えに拠るのではなく、キリストがご覧になって、キリストの目で相応しい人を、相応しい時に、選び出すのです。

 この召し出しに対して、人は「ハイ」と言って従う以外ありません。シモンとアンデレの二人は「すぐに網を捨てて従った」。ヤコブとヨハネの兄弟も「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」のです。「仕事に一区切りつけてから」とか、「家族や雇い人たちのメドをつけてから」などとは語っていないことに注目してほしい。召し出したお方が事後の処理をしてくださいます。安心していいのです。心配していたら何も出来ません。

 ここに記されている4人の召命の出来事は、この後に起こる無数の神の働き人の召命の基本的な在り方を示すサンプルと言っていいでしょう。「人をとる漁師にしよう」。ガリラヤ湖の漁師である4人に相応しい召しの言葉です。神の救いの恵みの中に人を導き入れる奉仕者となるのです。主イエスは、奉仕者を用いて、救いの御業をなさいます。神の国建設の働きに、わたしたち人の奉仕を用いてくださるのです。