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第311回 祈っておられた主イエス

聖書=マルコ福音書1章35-39節

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

 今回はマルコ福音書1章35-39節からお話しします。ここには、主イエスの力の源泉と使命が記されています。マルコ福音書の著者は、主イエスの公生涯の初めからイエスというお方の基本的な情報を読者に提供しようとしています。

 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と記します。「朝早く」とは、シモンのしゅうとめの家で夕遅くまで多くの病人、悪霊に取りつかれた人たちのためにいやしを行った日の翌朝のことです。前日は、カファルナウムの会堂での説教と汚れた霊につかれた男のいやし、シモンの家に移ってからのしゅうとめの熱病のいやし、集ってきて多くの人のいやしなどで、くたくたに疲れていたでしょう。

 早朝「まだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」。主イエスは一人起きて人里離れた場所に来ました。ガリラヤ湖畔でしょう。「そこで祈っておられた」のです。これが主イエスの力の源泉でした。主イエスは「神が人となられた神の子」です。父なる神の愛する子です。

 しかし、主イエスは人となられたお方です。疲れます。疲労困憊することもあります。前日がそうでした。主イエスは決して超人ではありません。肉体の疲労は休息と睡眠、食事などで回復します。しかし、人は霊的にも疲労するのです。霊的な疲労は人目にはつきません。主イエスは、この時、霊的にも深く疲労していました。

 主イエスは、霊的疲労のこの時、人里離れた場所に退き、ひとり祈りの時を持っていたのです。祈りは神との交わりです。父なる神と聖霊なる神との親しい交わりです。どのくらいの時間、祈られたのかは分かりませんが、主イエスの霊的な充電の時と言っていいでしょう。マルコ福音書だけでなく、すべての福音書で「祈る主イエス」の姿が多く描かれています。ここに主イエスの力の源泉があるからです。わたしたちも霊的に疲労する時、しっかり祈りの時を確保することが必要です。

 主イエスの不在に気付いた人たちは探し回ります。「シモンとその仲間」とは、弟子たちのことです。探し回って見つけると文句を言います。「みんなが捜しています」と。それに対する主イエスの答えがこれです。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。

 弟子たちも、主イエスが前日目一杯に働きづめであったことをよく知っていました。しばらくの休息を考えて捜していたのかもしれません。ところが、主イエスは祈りによって、真の休息を得て充電を完了したのです。休息ばかりしてはいられないという思いがありました。それが、この言葉となったのです。弟子たちに「近くのほかの町や村へ行こう」と言われたのです。

 「近くのほかの町や村へ行こう」とは、ガリラヤ近辺の街々村々を巡ろうというご意志です。主イエスの伝道は、伝道のためならどこへでも飛んでいくという、行き当たりばったりの無計画の伝道ではありません。主イエスの伝道の視線は世界に向けられていました。しかし、先ず足元の「近くの町や村」から始めて行くのです。身の回りから、身近なところから伝道を計画的に始めて行く。わたしたちも、この主イエスの視座と計画性を学ぶ必要があります。

 「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。「伝道」という言葉と「宣教」という言葉はほぼ同義語として用いられますが、少し意味が異なります。「宣教する」とは、神の言葉を宣言することです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とは神の宣言なのです。福音宣教とは、この神の宣言を語ることです。

 主イエスはこの後、弟子たちを伴ってガリラヤ中の会堂を行き巡り、福音を宣教し、病む者たちをいやし、悪霊に取りつかれた者たちを解放されました。主イエスの激しい伝道活動が始まってまいります。あなたも、主イエスとの巡り会いを求めてください。