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第312回 重い皮膚病をいやす

聖書=マルコ福音書1章40-42節

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

 

 今回はマルコ福音書1章40-45節のまとまりの中で、前半の40-42節までを取り扱います。ここに記されているのは「重い皮膚病」と訳されている病の人のいやし、清めの物語です。「重い皮膚病」についてきちんと理解しないと、この個所の十分な理解は難しいでしょう。

 以前の口語訳聖書では「らい病」と訳しました。問題ある翻訳でした。ヘブライ語は「ツァラアト」という言葉で、これをギリシャ語70人訳で「レプラ」と訳しました。その結果、世界中の翻訳聖書で「レプラ(らい病)」という訳語が定着してしまいました。

 しかし、これは大きな誤りであることが近年の聖書学と病理学によって指摘されてきました。この病については旧約・レビ記13-14章に詳述されていますが、実際には分からない病です。人の皮膚が白くなり湿疹のように広がる皮膚の疾患です。しかし、この疾患は人だけでなく、衣服にも、さらに革製品、家屋の壁などにも同様の現象が起こり、これらも旧約では「ツァラアト」と呼ばれています。

 今日では「ツァラアト」は意味不明の疾患とされ、レプラ、らい病という訳語は不適当とされています。全く違うものです。新共同訳の「重い皮膚病」の訳語も難しい問題をはらんでいます。新改訳が採用しているヘブライ語をそのまま用いる「ツァラアトに冒された人」というのが、現在では最も適切な訳し方でしょう。

 問題は、「ツァラアト」の感染力が強いと見られ、この病の患者は人との交わりから拒絶され、「汚れた者」として宿営の外に住まわされました。一般の病と区別される宗教的「汚れ」とされ、祭司の判断によって「あなたは汚れている」と宣言され、回復も祭司によって「清い」と宣言されねばならない祭儀的疾患とされました。

 「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」と記されています。「重い皮膚病を患っている人」(ツァラアトに冒された人)が、このように人前に姿を現すことはかなり勇気が要ったことです。彼は、ガリラヤ近辺の街々を宣教していた主イエスの言葉とみ業とを見聞きしていたようです。主イエスの言葉に信頼して、主イエスに自分の人生を賭けたと言っていいでしょう。「御心ならば」とは、主イエスの意志、主イエスの特別な配慮を求めたのです。

 すると、主イエスは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」ます。「深く憐れむ」とは、激しい感情を示す言葉で胸を掻きむしられるような同情の想いです。「手を差し伸べてその人に触れ」ます。「ツァラアトに冒された人」に近づくことは禁じられていました。しかし、主イエスはこの社会的な禁止を無視して、近づき、手を延べてこの人の患部に触れたのです。主イエスのこの人に対する「深い憐れみ」がこの行為に示されています。

 そして言います。「よろしい。清くなれ」と。これは中途半端な訳し方です。共同訳「私は望む。清くなれ」が正確な訳です。「御心ならば」(ご意志があれば)と言う願いに対して、主イエスは「そうだ。あなたをいやすのは私の意志だ。清くなれ」と言われたのです。人から疎外され、宿営の外で孤独に生きねばならなかった「ツァラアトに冒された人」を清め、いやすのが、主イエスの意志なのです。神の恵みの支配がここに来ているのです。主イエスの意志は、疎外されて生きる人たちを救い出し、神と人との交わりの中に回復することです。

 主イエスの言葉によって「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」。彼は自分の体の変化を見ることが出来たでしょう。白濁していた皮膚が消え、赤子のような新しい皮膚が盛り上がってきました。「いやされた」と感じ、喜びに打ち震えたでしょう。ここまでは、たいへん素晴らしい恵みの出来事でした。しかし、このいやしの物語には、なお続きがあるのです。彼の喜びの行為が、主イエスにとってとんでもない迷惑行為になってしまったのです。主イエスのお言葉に誠実に従うことの大切さを知らねばなりません。