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第313回 主イエスへの迷惑行為

聖書=マルコ福音書1章43-45節

イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 

 今回はマルコ福音書1章40-45節までの後半43-45節を取り上げます。40節からお読み下さい。ここに記されているのは「重い皮膚病」の人のいやし、清めの出来事のその後の物語です。

 「重い皮膚病を患っていた人」(ツァラアトに冒された人)が、主イエスのもとに現れて、「御心ならば」といやしを求め、主イエスもまた「深く憐れみ」手を差し伸べて触れ、「私は望む。清くなれ」と言っていやされ、恵みの出来事が起こりました。

 主イエスは、この疾患が当時の社会で祭儀的病とされていることを知っていました。そこで「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と、注意と今後なすべき事を命じました。実際に肉体がいやされただけでなく、社会的に受け入れられるためには祭司によって「清い」と判定されねばならなかった。「だれにも話さないように…」とは、多くの人の面前で行われたことで、秘密にしろということではなく、道草をせずに急いで祭司のところに行けと命じたのです。

 ところが、この人は自分がいやされたことを実感するとたいへん喜び、宇宙天になってしまいました。喜ぶことは結構ですが、主イエスの教えた今後とるべき処置についての言葉が消し飛んでしまい、とんでもない事態になったのです。「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始め」ました。

 彼のこの活動を、皆さんはどう評価しますか。彼は喜んで、自分の身に起こった恵みの事実を示して、主イエスのことを言い広めたのです。熱心に伝道して回ったと言えるでしょう。時に、今日も、このような人に出会うことがあります。自分に与えられた救いの恵みを喜び感謝する。たいへん結構なことですが、自分勝手な伝道を展開してしまう人がいるのです。

 牧師の配慮による制止も、時には教会の伝道計画も無視して、自分勝手な伝道をしてしまう人がいます。伝道活動にも一定の配慮やルールが求められます。ただ熱心であればよい、というものではありません。自分勝手な活動は教会全体に対して迷惑をかけてしまうこともあります。批判が教会に来ることもあります。彼のとった行動は迷惑行為で本当の伝道にはなっていないのです。

 「重い皮膚病をいやされた男」の行動によって、「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」という結果になりました。イエスは難病をいやす有名人、奇跡行者に仕立て上げられてしまった。落ち着いて街々村々を巡り歩き、会堂で教えるという主イエスの伝道のスタイルに戻ることが出来なくなってしまったのです。「町の外の人のいない所におられた」とは皮肉な表現です。彼の勝手な伝道活動によって、主イエスを伝道の場である町中から追放してしまった。主イエスの伝道を妨害してしまったのです。

 主イエスが「重い皮膚病を患っている人」をいやしたのは、彼を熱狂的な伝道者にするためではありません。重い皮膚病によって、人生に絶望し、社会から疎外され孤独に生き、また会堂や神殿を中心とした神との交わりからも断たれていました。この彼を深く憐れんでいやしたのは、きちんとした手続きによって社会との交わりと神との交わりに回復し、落ち着いた信仰生活を取り戻させるためでした。

 彼は、その後、祭司のところに行ったでしょうか。もし、行かなかったら「清い」という宣言・証明は得られなかったでしょう。主イエスの「ご意志」を無駄にしてしまったことになります。彼の迷惑行為によって、主イエスは町の外に追放され、伝道の場が失われてしまったのです。伝道は、ただ熱心であればいい、というものではありません。