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第315回 神の愛と応える愛

聖書=ヨハネの手紙Ⅰ 3章16節

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

 

 桜の花も散り始め、日中は暖かさを感じる頃になりました。教会ではこの時期、主イエス・キリストの受難を覚えて過ごしています。今回は、この短い聖書の言葉から主イエスの十字架の受難にまつわることをお話しします。

 「愛の使徒」と呼ばれるヨハネらしい味わいのある言葉です。使徒ヨハネにとって、主イエスの十字架の出来事は生涯忘れがたいものとして心の中に刻まれました。主イエスが祭司長たちによって捕らえられた時、ほとんどの男の弟子たちは逃げ去ってしまいました。主イエスの十字架の出来事をしっかり見守っていたのは女性の弟子たちでした。その中で、まだ年若かったヨハネだけが女性たちに混じって、十字架の主イエスのお言葉を聞き取ることのできるところにいました。

 主イエスは、十字架の苦しい息の中で、このヨハネに母のマリアを託されました。この後、ヨハネは「イエスの母を自分の家に引き取った」と記されています。ヨハネは、十字架で苦しみ呻く主イエスの息づかいまでも聞いた人であったと言っていいでしょう。

 その使徒ヨハネが今、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」と記すのです。ここで、ヨハネは自分が見た十字架の出来事とその意味を物語っているのです。何のために主は苦しんだのか。主イエスの十字架の苦しみは、どういう意味があるのか。ヨハネは、それはわたしたちのためなのだ、と記すのです。主イエスの十字架の苦しみは、わたしたちの罪が赦されるためでした。

 ヨハネは、十字架の下で、その身近で、主イエスの苦しみの息づかい、血の滴り落ちる音までも聞いたと言っていいでしょう。聴く者の腹の底まで揺り動かすような呻きと苦しみの声を直接に聞いた。そのヨハネが「そのことによって、わたしたちは愛を知りました」と語っているのです。「愛を知りました」。これは、使徒ヨハネが生涯をかけて語った証しの言葉です。主イエスの十字架の苦難の有様を、その目で見て、その声を聴いて、それによって、神の愛が本当に分かったと語っているのです。

 この「愛を知りました」とは、2つの意味があります。1つは、神が罪人を愛して下さったこと、わたしたちは神に愛されていることです。この言葉の背後には、罪に対する神の断罪があります。キリストの十字架において示されているのは、神が人の罪を罪として裁いておられることです。しかし、本来、罪によって裁かれて滅びるべきわたしたちに代わって、主イエスが罪の負債を担い、苦悩し、償いの死を経験しておられるのです。

 ここに、神の愛があります。神の愛は、主イエスの十字架によってはっきり示されました。罪が赦され、神と共に生きるのです。この主の受難を覚える時、神が罪人のために主イエスを犠牲として下さった愛について思い巡らせて、この愛を受け止めてまいりたい。

 2つは、十字架に表された神の愛を受け止めて、わたしたちもまた、互いに隣人を愛し合うことが求められていることです。隣人への愛は人間的な同情ではありません。キリストの十字架の愛を知るところから始まります。

 神が、わたしたちのために最も大切な神の御子を犠牲にされたことを覚えて、わたしたちもまた隣人のために犠牲を捧げることです。これは強制されてではなく、神の愛にうながされた感謝としてです。受けるだけの愛ではなく、隣人に仕え、献げる愛をもって生きてまいりたい。主イエスのご受難を覚える時に、わたしたちのためにいのちを献げてくださったキリストに示された神の愛を知って、その愛に応えて歩む者となってまいりたい。これが、使徒ヨハネの願っていることであります。