聖書=マルコ福音書2章6-12節
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
マルコ福音書に戻ります。今回はマルコ福音書2章1-12節の後半部分、6-12節を取り扱います。主イエスによって中風の人の罪が赦された現場に「律法学者数人が座って」、イエスのやりとりを見ていました。ここから新しい展開が始まります。
「律法学者」とは、どういう人でしょうか。当時、エルサレムとユダヤはローマ帝国の植民都市の1つでした。多くのユダヤ人、祭司階級の人たちは、時の権力者であるローマ総督に迎合し、ローマの華やかな文化に流されていました。これに反発したのが「ファリサイ派」と呼ばれる人たちです。ユダヤ伝来の律法に忠実に生きようとしたのです。このファリサイ派の中で、さらに専門的に律法の学習と研究に励んだのが「律法学者」と呼ばれる人たちで律法の専門家です。
この人たちは、主イエスの語った「あなたの罪は赦された」と言う言葉に疑義を示したのです。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と。鋭い、また正当な指摘です。神に対して犯された罪は、神だけが赦すことが出来ます。罪の赦しの権能は神にだけあります。これはユダヤ教信仰の根幹です。人間に過ぎないイエスが「罪を赦す」と語ることは、神を冒涜することです。
この疑念は、律法学者たちが「心の中であれこれ考え」た内心の言葉でした。しかし、主イエスはこの内心の思いを「御自分の霊の力ですぐに知って言われた」のです。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか」と。主イエスは彼らの疑念に対して正面から応えようとしています。それによって、主イエスが真実に罪を赦す権能を持つ神であることの身の証しを立てようとしているのです。
主イエスは、多くの人たちの前で、律法学者たちに対して「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問います。律法学者たちが考えるように、「罪の赦し」は単なる言葉の問題ではありません。神だけが語ることの出来る言葉なのです。「起きて、床を担いで歩け」という言葉は人間の医者でも容易に普通に語りうる言葉です。
そこで、主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と語ります。すると、「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」のです。中風を患っていた人のいやしは、罪の赦しの目に見える具体的な証拠です。罪の赦しの真実性が示されたのです。
罪の赦しは、神との関係が回復することです。神との関係が正常になり、恐れることなく神に近づき、神と交わりが出来、神に生きる者とされ、心も体も健やかにされて生きるのです。主イエスによってなされてきた病のいやし、悪霊の追放が意味することは、人が心身共に健やかにされて、神に生きる者とされたことの結果なのです。主イエスは、この出来事を通して、御自分を罪の赦しを与えることの出来る「神性を持つお方」として示されたのです。
これを目の当たりにした人々は皆驚きました。「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美したのです。神の恵みの支配が「罪の赦し」という形で、ここに来ているのです。主イエスの臨在と祝福があるところ、赦しの恵みがあるのです。あなたも、主イエスの元に来ませんか。