「十戒」の解説を終えた後、さて、次に何を記そうかと考えました。「ニケア・コンスタンティノポリス信条」という古代教会の信条の解説を始めようかとも考えました。しかし、止めました。この「インターネット・オープンチャーチ牧場」を見ていてくださる方々には、あまり関心がないだろうし、わたし自身も準備不足を感じると共に、もう引退した身でそのようなことに取り組むだけの気力を失ってきています。
牧師を完全に引退してから時間的な余裕ができ、テレビを見る時間が増えました。すると、企画された番組とは違い、俳優やタレントさんが街かどを歩く「散歩」番組に気づきました。俳優さん一人、駅前あたりから、適当にブラブラと好きな方角に歩き出します。なんの計画もアポもなしに、店をひやかしたり、面白い店舗や工場を見つけて入り込んで話を聞きます。お腹が減ったら、適当な店に入り、好きな料理を注文し、いろいろ蘊蓄を傾けます。表通りだけでなく、裏道に入り込んだりして、思いがけない面白い事業所などを紹介してくれ、こんなところに、こんな物づくりがなされていると、興味が湧きます。似たような番組もけっこうあります。見る人がいるのでしょう。しかし、見だしたら、興味が湧いて見てしまいます。なにげない街かどに、時に面白いお店や工場があり、そして歴史があるのです。「そうだ。こういうもののキリスト教版ができないだろうか」。そんな思いが湧いてきました。
整理された組織的、専門的なキリスト教の道案内ではありません。行き当たりばったり、何にぶつかるか分かりません。表通りにも出ますが、裏道にも橫丁にも入ります。目に留まったこと、見聞したこと、感じたこと、何でも採り上げましょう。上からも、下からも眺めます。決して総合的、専門的には採り上げません。しろうとの目で見て、適当なところで終わります。無責任極まりないと言われるでしょう。そうです。もう、わたしは引退して責任を持たなくていいのです。
この「インターネット・オープンチャーチ牧場」には、もう1つ「折々のことば」というページがあります。わたしの「時評」です。折々に感じた社会評論と言っていいでしょう。反対の立場に立つ人もいるでしょう。あまり直接的にキリスト教とは関わらせずに書いています。「わたしはこう感じ、こう考えている」というものを、折々に書いています。
この「キリスト教散歩」のページは、まさにキリスト教に深く関わります。キリスト教の裏表を語ると言ってもいいでしょう。キリスト教に関わりを持って60余年、いろいろなことを見聞きしてきました。その中での率直な見聞記、随想を記させていただこうというものです。「よってらっしゃい。見てらっしゃい」。興味のある方は、どうぞご覧になって、お声をかけてくださいましたらと、願っています。(2020.9.25)
「キリスト教散歩」の手はじめに、「今、キリスト教会は……」という主題で、最近、見聞きしている教会の実情からお話ししましょう。わたしの見る限りでのことですが、どの教派、どの教会にもあまり元気がありません。元気に積極的に伝道していた教会もおとなしく、意気消沈しています。数百人の集会をしていた教会も痩せ細っています。理由ははっきりしています。「新型コロナウィルスの感染禍」を恐れるためです。
キリスト教会の外で起こっているのと同じ現象です。老舗の店舗が次々に廃業しています。ライブハウスが休業しています。デパートや大きな系列の料理店などが整理統合されています。いろいろな業種のお店もあえいでいるようです。似た現象がキリスト教会にもあるということです。
ソーシャルディスタンスということで、集会に集う人の数を極度に制限しています。礼拝をオンラインでのライブ配信に切り替えた教会も多くあります。集会そのものを取り止めてしまった教会もあるようです。「教会に、来ないでください」というような状況になっているのです。教会の最も大切な「聖餐式」をほとんどの教会で取り止めています。積極的に外に呼びかける「特別集会」などもすべて中止です。おかげで、わたしにも年に数件あった伝道集会の講師依頼はほとんどがキャンセルになっています。
「教会」のことを、ギリシャ語で「エクレシア」と言います。意味は「召し集められた群れ」です。キリストによって、一人ひとり、あなたも来なさい、あなたも来るのですよ、と招かれて集うところが「教会」というところです。集会のことを「礼拝」と言います。プログラムに従って儀式を行うように思いますが、実は全体が祈りなのです。共に集まって、互いのことを覚えて、多くの人たちのために、祈りを捧げるところです。
今、その集会が細くなり、自由に出来なくなっています。祈りがやせ細ってしまっていると言っていいでしょう。無観客での大相撲や野球、人を入れないでのコンサート、ライブハウスのようなものです。キリスト教会は、今、危機にあります。しかし、希望は地方にあります。都会から離れた地方の教会、田舎の教会が健闘しているのです。十分に注意しながらですが、いつも通りの集会をしっかりと守り続けている教会が多いのです。皮肉なことですが、元々、人数が少なく、コロナ禍の中でも比較的にクラスターからは守られているのです。田舎の教会が、しっかり集会を守り、しっかり祈りを捧げているのです。わたしは、この姿を見て、深い感動に包まれています。失望しないぞ、と。(2020.10.13)
まもなく「宗教改革記念日」が巡ってきます。10月31日です。この記念日を覚えるのは同じキリスト教会でもプロテスタント諸教会だけでしょう。最近では、プロテスタント教会の中でも覚える教会は少なくなっているのではないでしょうか。
「宗教改革記念日」とは、マルティン・ルターが、1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に「95箇条の論題」を張り出して宗教改革運動が始まった、とされる日です。このルターの宗教改革運動に触発されて、フランス、スイス、オランダ、ベルギー、英国、北欧諸国へ広がり、ヨーロッパ諸国がしだいにローマ・カトリック教会の体制から離れて、プロテスタント諸教会へと変わりました。
この宗教改革運動は、意外なところで日本にも大きな影響をもたらしているのです。ローマ・カトリック教会一色だったヨーロッパ世界が、プロテスタント諸教会の成立によって大きく様変わりしました。これに対するカトリック教会の失地回復運動と新世界の発見などによる植民地獲得競争が連結しました。カトリック教会の失地回復運動の一環としてイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる日本宣教、キリシタンがあるのです。
宗教改革の成立からしばらくは、カトリック教会とプロテスタント教会とは犬猿の仲と言ってもいいくらいでした。互いに「異端」として破門し合い、罵り合い、時に熱い戦いもしました。しかし、今日は様変わりしています。相互の主張もだいぶ理解し合い、互いが兄弟であることを認め合う時代となりました。1962年から1965年にかけて行われたカトリック教会の「第二バチカン公会議」以降です。
今日では、なおそれぞれにある違いを認め合いつつ、同じ基本的信仰を共有する存在として、多くの面で共働の働きをしています。その最も大きな働きが聖書翻訳です。キリスト教信仰の土台である聖書を、カトリック・プロテスタントが協力して翻訳している状況です。それが現在、両教会で用いられている「新共同訳」聖書です。
宗教改革固有の意味と重要性は否定できません。宗教改革の「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」という基本的主張は、今日も色あせてはいません。カトリック教会とプロテスタント教会との間には、なお大きな隔たりがあることを現実に認めざるを得ません。両者の合同は難しいでしょう。しかし、基本的信仰を共有する教会として、これからは互いに尊敬し合い、協力し合っていくことが求められているのです。とりわけ、日本では必要なことではないでしょうか。(2020.10.19)
10月31日は、プロテスタント教会では「宗教改革記念日」として覚えますが、日本の一般社会では「ハロウィン」の日として覚えられているようです。そして、これがキリスト教に関連するものとして多くの人に受け止められているようです。
毎年、毎年、そしてコロナ禍の今年でも渋谷の大通りに仮装した人たちが集まり、飲酒して暴れ回り、多くの人たちの不快と迷惑となっています。わたしは、この人たちを貶めるつもりはありませんが、キリスト教と幾分かでも関わりのあるものとして理解されているとしたら、その誤解だけは解いておきたいと願っています。
キリスト教では、カトリック教会もプロテスタント教会も、これについてほとんど何も語りません。それは全くキリスト教とは関わりのないものだからです。関係のないものですから、どの教会でも公に取り上げてはいません。無責任なこの欄で、「関係ないものだよ」と、きちんとお伝えしておきましょう。
元々、ハロウィンの習慣はキリスト教以前のものです。イングランド、アイルランドなどに居た原住民ケルト民族のドルイト教の祭で、秋の終わり、冬の始まりに、死者の霊がその家族を訪ねてくると信じられていました。そこから精霊や魔女信仰、さらに死者の霊を迎える焚き火や仮装などがなされていたようです。日本の「盂蘭盆会」に相当するでしょう。キリスト教が英国に伝えられてから、これらは異教のものとして弾圧、禁止されましたが、しぶとく生き残りました。カトリック教会には、11月1日に「諸聖徒祭(万聖節)」というものがあります。これは聖人に列されなかった多くの殉教者を覚える日です。これと関係づけられて、その前夜祭として民衆の慣習の中で隠れて細々と生き残ったのです。
この人々が、新大陸・アメリカに移住してから、教会的な縛りが緩められて、ハロウィンが生き返ったようです。これがキリスト教的な背景を持たない日本に移入され、教会的な縛りを全く持たない日本では「狂騒」となったのです。ハロウィンを祝うも祝わないも自由ですが、キリスト教と関係づけることだけはおやめください。また、クリスチャンを自認する人は加わらないことを勧めます。オカルト的なものとなります。(2020.11.13)
11月になると、教会は急に華やぎ、忙しくなります。11月の最後の日曜頃から「アドベント」(待降節)が始まるからです。アドベントとは、「待つ」という意味の言葉で、クリスマスの4週間前から、準備し、心備えしてクリスマス(降誕節)を待つ時なのです。
質素だった礼拝堂にクリスマスツリーが飾られ、いろいろな飾り付けがなされます。礼拝でも「アドベント・クランツ」というロウソクが灯されます。教会に集まる人々も華やいできます。初めて教会に行くのは、このような時期がいいでしょう。
例年のいつものクリスマスの集会では、広い会堂も集まる人々で狭くなります。「クリスマス・おめでとう」(メリークリスマス)と呼び交わし、握手し、久し振りの人とはハグし合います。大人も子どもも着飾って挨拶し合う「ハレの時」です。遠隔地の人たちとは「クリスマスカード」を送り合います。
クリスマスの礼拝では、懐かしいクリスマスの讃美歌が数多く大きな声で歌われます。聖餐式が喜びの内に執り行われます。礼拝後には、多くの教会で「愛餐会」と呼ばれる会食が行われ、その中で大人や子どもの楽しい多くのプログラムが行われます。アドベントは、このようなクリスマスの集いのための準備を1ヶ月かけてしていく時です。
しかし、今年、2020年のクリスマスは、新型コロナウィルスの感染禍で、いつもとは様子がまったく違うのではないかと思っています。「マスクをしろ」、「三密になるな」、「ソーシャルディスタンスをとれ」、「会食をするな」……。これらの言葉は、例年のいつもの教会のクリスマスの喜びを半減させるものです。わたしは、もう牧師を引退していますが、今年の教会のクリスマス諸行事の様子については予測できません。どんなクリスマスになるのでしょう。でも、クリスマスは「喜びの時」です。ソッと静かに参加してみましょう。今回の花は、祝福と幸運を祈るクリスマスのポインセチアとします。(2020.11.30)
今回は、「聖書」について記すこととしましょう。「聖書」は、この「キリスト教散歩」の一丁目一番地です。これから何度も採り上げることとなるでしょう。ここでは、聖書の重要性、必須性をお話しします。キリスト教の集会では、基本的にどんな集会でも聖書が読まれて、聖書から話がなされます。牧師や信徒たちの信仰の体験談が自由に語られるような時であっても、その基本に聖書のメッセージが語られて、これが基本とされていきます。これが日本の他の宗教、仏教や神道の集会と大きく異なるところです。
キリスト教の集会では「お参り、参詣」という形を採りません。新年の初詣では、社殿や仏閣の前で、手を打ち、頭を下げ、願いをつぶやき、幾ばくかの賽銭をして終わりになり、すぐに社殿などから離れます。それに対して、キリスト教では「聖書」からの話を聞く一定の時間を取る「集会」をするのです。元旦の集会だけでなく、日曜日の集会も、葬儀式などでもきちんと「集会」をします。ちょっと出かけて、ちょっとお参りして帰る「参詣」型のものはないと言っていいでしょう。
元旦などの季節の集会も、結婚式や葬儀式などでも、基本的には日曜日の礼拝式とあまり変わらない一定の時間を取った集会を行い、信徒たちはそれに始めから終わりまで出席します。そのすべての集会で、短いか長いかはありますが、聖書が朗読され、聖書からの話がなされます。
キリスト教の信徒は、ほぼ毎日、聖書を読む生活をしています。時折、忙しい時には省略したり、忘れたりすることもあるでしょう。しかし、基本的には「聖書を読む」生活をしています。これは、日本人のほとんどを占める仏教徒や神道の人たちとまったく違う生活の在り方です。一人ひとり自分で聖書を読み、聖書を人生の基軸として生きる生活をするのです。聖書を基本として生きる。聖書を読み、聖書を語り教える集会を守る。これが、キリスト教の在り方と言っていいでしょう。(2020.12.25)
ここでは「賛美歌」ついて記すこととします。キリスト教の最大の特徴は「歌う」ことにあります。日本の仏教にも「声明」と言い、経典に節をつけて歌うのですが、あまり一般的ではありません。また、イスラム教でも、わたしの知る限りですが、歌う習慣は見当たりません。
それに対して、キリスト教はローマ・カトリック教会でもプロテスタント教会でも、ほとんどの礼拝・集会で、必ず「歌う」部分を持っています。「賛美歌」と記しましたが、ローマ・カトリック教会では「聖歌」と呼んでいるようです。プロテスタント教会の中で、福音派と言われる教会の多くでも「聖歌」という呼び方をしています。多くのプロテスタント教会では「讃美歌」としています。それぞれの主張があり、幾分の違いがありますが、歌われる歌の内容には共通しているのがほとんどです。そのため、ここでは総称的に「賛美歌」としておきましょう。
歌う宗教としての在り方は、旧約・ユダヤ教からの伝統と言っていいでしょう。旧約聖書の中に「詩編」という部分があります。その詩編の中で「歌え」、「たたえよ」、「賛美せよ」などと言う言葉がたくさん記されています。詩編のほとんどは、神殿や会堂の集会の中で歌われたものです。内容的には、神をたたえる賛美、神の救済を描き歌う叙事詩、神に助けを求める祈り、神への信頼を訴えるメッセージ・教えや教訓などです。さらに恋の歌「雅歌」もあります。歌う伝統を旧約・ユダヤ教から受け継いできたのです。
教会の礼拝・集会に参加して、実際に賛美歌を歌う体験をしてみてください。初めて「賛美歌」を歌う時には緊張するかもしれません。わたしは音譜も読めない、音痴であるという自覚を持っていましたので、メチャメチャ緊張しました。しかし、平気で平然と歌ってみてください。音符などにあまりこだわらずに歌っていいのです。周囲の人たちの声に合わせて声を出してみてください。しだいに馴れてきます。
賛美歌は、基本的に「神への祈り」です。賛美歌の歌詞をよく読むと分かっていただけると思います。神への賛美、神への嘆き訴え、願い求めです。賛美歌を歌うことは祈りの世界に入っていくことなのです。旧約の詩編が「歌え」、「たたえよ」、「賛美せよ」と語るのは、神との出会い、神との交わりを体験させるためのものであると言っていいでしょう。賛美歌を実際に声を出して歌うことを通して、しだいに神を信じる信仰へと導かれていくのです。これが、キリスト教の在り方と言っていいでしょう。(2021.1.8)
今回は「日曜学校」について記すこととします。日本にはいろいろな宗教が数多くありますが、正面から幼児、子どもを取り扱う宗教はほとんどないと言っていいでしょう。神道でも仏教でも、子どもは大人の随伴者、付属物のように考えられてきました。
しかし、キリスト教では子どもであっても教会の大切な構成員として扱われてきました。その証拠が「幼児洗礼」です。生まれて間もなく親に連れられて来て、洗礼を受けて教会の正規の構成員になるのです。幼児ですから、教会の権利・義務の関わりはありませんが、教会の見守りの中に置かれます。大切な将来の教会の担い手として育てられます。子どもを群れの中で大切に養育することは、キリスト教以前のユダヤ教の割礼から受け継いできた信仰的伝統と言っていいでしょう。
日本にキリスト教が伝えられた時、このような信仰的な伝統から大きな務めを担ったのが「日曜学校」でした。実は「日曜学校」については、教派教会、あるいは牧師によって理解の仕方がやや異なる場合があります。ここでは、ごく一般的に日曜日の朝、大人の礼拝の前に行われる地域の一般の子どもたちを集めて行われているものを指すこととします。信徒の子どもも、地域の未信徒の子どもも一緒に集まって行う「子どもの集会」です。
敗戦後、わたしが教会に行き始めた頃(1950年代)、牧師になりたての頃(1970年代)は、いずれの教会でも日曜学校は大盛況でした。子どもが子どもを連れてきました。敗戦後すぐの時代の教会では何もありませんでした。教案誌も、道具も何もない手探りの状態の中で、牧師と信徒の熱意で動かしていたのです。集まってくる子どもたちに、聖書の話をし、手作りの聖書紙芝居をし、ゲームをし、食事会をしました。
やがて、その日曜学校の生徒たちの中から、「わたし、洗礼を受ける」、「僕、牧師になる」と決意を表す青年たちが次々と現れてきたのです。日曜学校は、長く教会の最大の伝道機関でした。教会を開設するための最初期の開拓伝道は、この日曜学校の開設によってなされてきたと言っていいでしょう。
翻って、今日、多くの教会で、この日曜学校が壊滅状態になっているのです。日曜学校の活動自体を止めてしまった教会も多くあります。もう一度、冷静に課題を分析して、ネット化の時代、ポスト・コロナ禍の日曜学校の在り方も再検討して、活性化できないものでしょうか。子どもを大切に取り扱うという教会の基本的な信仰伝統を受け継いで、日曜学校を魅力あるものへと再興できないだろうか。そんなことを考えています。(2021/1/29)
今回は、キリスト教散歩の中で最も中心的な「教会」について、ごく基本的なことを記したいと思います。皆さんは街中を歩くと、時折「……教会」という看板を出した建物を見ることもあるかと思います。でも、注意しながら歩くのでないと、見落とすことになるでしょう。それほど、日本では「教会」の建物は目立たないのです。
日本中に「教会」は、どのくらいの数あるでしょうか。大まかな数え方ですが、カトリック教会は約1,000、プロテスタント諸教会は約8,000、合わせて9,000ほどの教会があります。日本マクドナルドの店舗数2,900、セブンイレブンの店舗数21,000と比べてみてください。決して少なくない数です。教会は、人口の多い都市に多くありますが、わりあい小さな地方の街にも点在しています。注意して見てくださったら、十字架の付いた「教会」の建物を見つけることも出来るでしょう。
しかし、実は「教会」というものは、建物ではありません。建物は、本来「教会堂」と呼ばれています。教会とは、そこに集う「信徒たちの群れ」のことです。主イエスご自身が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)と言われました。キリストの名の下に、二人、三人、複数の人たちが集って祈りする群れ。これが教会なのです。そして、この「祈りする群れ」を包む場が「教会堂」なのです。
その集う場が、人目につくような大会堂でなくても、アパートの一室、個人の家の一室でも、極端に言えば、例え野外であっても、信じる者たちが集うところに「教会」は存在するのです。建物の大きさや荘厳さ、貧しさは関わりありません。その建物の中で営まれている「祈りの集い」…礼拝が教会そのものなのです。
あなたも、注意して街中を見て歩くと、十字架の付いた建物を、わりあいよく見つけることが出来るでしょう。「あっ、こんなところにも…教会があった」と。どうか、建物の大小、立派さではなく、小さな教会堂であっても、「……教会」とあるところを訪ねてみてください。その群れの祈りの集い・礼拝に加わってみてください。そこから、あなたの新しい人生が開かれていくことになるでしょう。今回の花は、花桃とします。辛抱し、忍耐強く待って艶やかに咲いています。(2021/2/12)
皆さんが、散歩の途中などで街にあるキリスト教の教会堂を見つけたら、その教会の「礼拝」という集会にソッと出かけてみてください。教会に出席するのは「敷居が高い」、「どんなところか分からない」、「教会に行くほどの悩みはない」などと思っているかもしれません。興味半分でもかまいません。今回は、礼拝へのお誘いを記します。
教会に出席するためには、教会の看板に記している電話番号に、前もって電話してみてください。最近は多くの教会で「ホームページ」を持っています。それを通して連絡してみてください。前もって連絡していくと、きちんと迎えてくれます。何も持っていく必要はありません。最近は「コロナ禍」で、教会も出席者を絞っていますから、人数が少なくなっています。しかし、新しい来会者は規制しませんから、マスクだけはキチンとして行ってください。
「礼拝」は、教会の中心的な集会です。礼拝に出席してみると、その教会の様子が、全部分かります。冷たい感じか、温かく迎えてくれるか。どんな人たちが集まっているのか。感性的、感覚的について行けるか。牧師と気軽に話せるか。1,2回、礼拝という集会に黙って出席してみたら、自分に合うか合わないか、分かってきます。
日曜日の午前10時か10時30分から始まります。受付で、「週報」という礼拝のプログラムを渡されます。聖書と讃美歌などを借りて示された席についてください。ほぼ1時間半ほどの集会が始まります。司会者の指示通りに讃美歌を開いて歌い、聖書を開けてください。「説教」がなされます。聖書の解説と言っていいでしょう。しっかり聴いてください。「献金」の時があります。信徒が捧げるものです。捧げるも自由、しないも自由です。集会の後、牧師に挨拶してお帰りください。
礼拝は、基本的には字の如く「神を拝む」時と言っていいでしょう。椅子に座り、讃美歌を歌い、祈り、聖書からの神の言葉を聞く。キリスト教は、この形で神を拝むのです。そして、その中で聖書が語るわたしたちに対する神の愛と生き方の指針が示されていくのです。礼拝は、聖書の学びの時でもあります。
何回か、礼拝に集ってみて、続けることが出来るようでしたら、牧師に「また来ます」と告げてください。違和感を感じるようでしたら、もう行かなくていいのです。「行かない」ことが意思表示です。教会はあまりしつっこく追いかけるようなことはいたしません。他の教会を見つけて、また行ってみてください。いろいろと分からないこともあるでしょう。その時には、遠慮なく、近くにいる人に、あるいは牧師に尋ねてください。(2021/2/21)
わたしは、皆さんに「聖書を読んでみてください」とお願いしました。この「オープンチャーチ牧場」でも折々に記しました。ここでは、その聖書について「解釈の必要」を記すこととします。皆さんが、聖書を読むに際して「解釈」が必要だということを、心のどこかに留めて置いていただきたいのです。解釈なしに聖書の文言を、文字通りそのままに受け止めると、たいへんなことになります。聖書と近代科学との衝突が語られます。これなどは聖書の文言が解釈されねばならないことを忘れているためのことです。
聖書は、新約聖書でも記されたのは紀元1世紀の後半から1世紀末から2世紀初頭にかけてです。旧約聖書は紀元前200年頃から遡ること千数百年にわたって書き続けられ編纂されてきた古代の文書です。「聖書は神の言葉」と言っても、古代人の思考、古代人の世界観、古代人の言語と生活の中で産み出されてきた文書であることです。
これらの点を忘れて、聖書の文言の文学的・文献学的・言語学的に批判検証することなく、「Bible says,……」(聖書は言う……)と言って、文字面の表面だけで受け止める直解主義は誤読、誤解の原因です。今日、わたしたちが手にしている日本語の翻訳聖書は、一応、これら批判検証を経て翻訳されたものです。とは言え、聖書には、今日的な視点に立って解釈されねばならないことは無数にあります。旧約聖書・ヨシュア記では「雄々しく立って、ことごとく滅ぼし尽くせ」と命じています。詩編では「太陽が、天の果てから天の果てを目指して走る」と記します。新約聖書でも「女は黙っていなさい」とか「(奴隷に対して)自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と、男女差別、奴隷容認とも取れる言葉があります。
これらの文言を字義通りに理解し、しかも神の言葉として重く受け止めるところから、戦争の肯定、科学的思考の拒否、男女差別や奴隷制容認などのとんでもない発想が出てきたのです。聖書は、基本的に罪人の救済の道、人の尊厳や自由、平等、愛と平和、民族主義を乗り超える世界主義へと大きな視線を持っています。しかし、時代の中で記された文書です。聖書の一つひとつの文言は、聖書全体が語る全体のメッセージを踏まえて理解されねばなりません。また聖書の文書の類型、詩歌は詩歌として、手紙などは記された時代考証の中で解釈されねばならないのです。今回の花は、慰めを与えるクリスマスローズとします。(2021/2/26)
今年(2021年)の「イースター」(復活節)は、4月4日の日曜日です。キリスト教にとって、イースターは最も大切な祝祭日です。日本では、キリスト教の祝祭日というと「クリスマス」となりますが、最も大切なのはイースターです。クリスマスは、紀元4世紀頃のローマ教会から始まりますが、イースターはイエス・キリストの復活そのものから始まります。
今、「レント」を過ごしています。「レント」は、日本語で「4旬節」と言われ、イースターに先立つ40日間を指します。クリスマスの前4週間をアドベント(待降節)として備えるように、レントはイースターの準備の期間と言っていいでしょう。
しばらく前まで、日本では「イースター」は一般にほとんど知られていませんでした。しかし、最近ではデパートやコンビニ、スーパー等でも関連したグッズや贈答品などが売られるようになってきました。何でも利用できるものは利用しようというたくましい商魂からでしょう。しかし、とにかく「イースター」が世間に知られることは良いことですが、意味はよく分からないようです。
「イースター」は、死人の復活・よみがえりの喜びの時です。イエス・キリストが十字架処刑で死に、葬られて、三日目に墓から復活した出来事を記念する時なのです。イエスが死んで墓に葬られ、そのままであったら、イエスは死に服してしまったことになります。キリストのすべての働きは虚しくなります。イエス・キリストのすべての働き、救いのみ業、十字架の贖い、永遠の命の獲得などが虚しい業となります。「イエスは、よみがえられた」。ここにすべてがあります。
そのため、使徒パウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」(ローマ書1:3-4)と記します。死者からの復活をもって、イエスは神の子であると認められるのです。イエス復活の出来事が、キリスト教信仰の一切の根拠となっています。
「復活など、とても信じられない」、「非科学的である」と。これらの声に、今ここで反論したり、弁証するつもりはありません。「信じられない」に、わたしも、ある意味で同意します。しかし、復活を信じる信仰者である科学者たちによって近・現代の科学的な思考と展開がなされてきたのです。世界の総人口の3分の1を占めるキリスト教徒の信仰の根拠が、「キリスト復活」の事実に支えられているのです。今年のイースターの機会に、あなたもお近くの教会に行き、この「謎」に取り組んでみませんか。(2021/3/12)
昨年から今年にかけて、新型コロナウィルスの感染禍が猛威を振るっています。多くの教会では、感染禍の「密」を避けるために、礼拝の出席者を削減しています。ウェブ配信を利用しての動画配信での礼拝となっているところも少なくありません。教会は、大きな痛みとダメージを受けています。
その中で、最も大きなダメージは、病人への訪問が出来なくなっていることです。ほとんどの病院で、コロナと関係なくてもすべての病棟で「面会謝絶」となっています。家族でさえも面会が出来ない状態が続いています。まして、コロナ感染者となれば、一切の面会が許されず、家族の「看取り」も出来ていません。
このような事態は、キリスト教会からしたら、たいへん危機的な状況です。病む者への訪問と看取りとは、教会の大切な使命、ミッションなのです。カトリック教会では「終油の秘蹟」とされています。プロテスタント教会では秘蹟ではないが、教会の大切な務めであることに変わりありません。病床の傍らで、聖書を読み、祈りを捧げ、訴えの声を聞き、慰めを語る。時に応じて、病床で聖餐式を行う。家族と共に、看取りを行い、祈りする。
わたしは、これが牧師の大切な務めであると受け止めて行ってきました。今、コロナ禍の中で、そのすべてが出来ないでいます。わたしは今、この点についての教会からの痛みの声をほとんど聞いていません。教会は、この大切なミッションを放棄しているのか。教会は、病む者たちと共に痛みの声を挙げるべきではないでしょうか。病む者と共にある教会の痛みの声が聞こえてこないことに、不信といらだちを覚えています。今回の花は、復活を表す百合とします。(2021/3/26)
わたしが牧師の現職であった頃、時折、教会に電話がかかってきて「お宅の教会は『何派ですか』」と尋ねられることがありました。多くの方にとって興味のあることかと思っています。
ご存じのように仏教にも「宗派」があります。仏教の宗派は、所与の経典が異なる場合が多く、宗教儀礼にも相当な違いがあるようです。キリスト教の場合、ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会とでは表面的に相当な違いがあるようですが、正典と基本的な信仰は変わらないと言っていいでしょう。
「教派」という言葉が用いられるのは、プロテスタント・キリスト教の場合です。プロテスタント諸教会では、聖書・正典は共通です。旧約・新約66巻の聖書を正典として受け入れ、信仰の源泉としています。そして、問題はここにあると言えます。プロテスタント・キリスト教は、よく言えば「聖書的キリスト教」と言えるでしょう。聖書に忠実に従って信仰と生活を整えていこうという姿勢です。
そこに生じるのが、聖書の理解、聖書解釈の問題です。三位一体の神、神であり人である二性一人格のキリスト、信仰のみによる救い、罪の赦しと永遠のいのちなどの基本的な信仰では一致しています。しかし、聖書を読み解いていく中で、細かな事柄、教会形成と伝道などの実践的な事柄では相当な理解の相違、幅があると言っていいのです。そして「聖書解釈の自由」を、プロテスタント諸教会は大切にしているのです。
教皇のような存在を認めないプロテスタント諸教会では、聖書解釈についての調整をしたり、最終決定をする存在はありません。細かな聖書理解で争い合うのではなく、それぞれの解釈を互いに尊重し合って別れて存在する。これが「教派の存在」となり、プロテスタント教会の特色的な在り方となりました。このことを理解し、あまり教派の存在にとらわれることなく、ご自分の近くの教会、または実際に行ってみて、「落ち着ける」教会を見つけて、そこで腰を落ち着けて信仰への道を歩み出してください。(2021/4/9)
日本では「七五三は神社で、結婚式は教会で、葬式はお寺で」と言われてきました。多神教の日本独特の宗教事情を表す言葉です。最近は少子化と結婚式も地味になり、結婚式場も閉じられています。昔は飛び込みで「教会で式を挙げさせてほしい」という願いがかなりありましたが、今はほとんどないようです。一抹の淋しさを感じています。
わたしの所属する改革派教会では、未信者同士の結婚式を教会で行うことに、やや批判的でした。理由は、未信者は神に誓約が出来ないということのようです。ローマ・カトリック教会では結婚は秘蹟ですが、プロテスタント教会では秘蹟でも何でもありません。わたしは教会の役員たちの了解を得て、未信者同士の結婚式を受け入れてきました。それは結婚は救済に関わることではなく、神の創造の秩序の中にある重要な事柄で、神の祝福を祈る時だと理解していたからです。
結婚は、単なる形式的な通過儀礼の1つではありません。社会的な意味を持つと共に、神と証人の前で誓約をし、神の祝福を祈り求める大切な時なのです。わたしは式前に3,4回、聖書からの学びの時を設け、その折りにキリスト教の案内と生活の在り方を伝えてきました。結婚式は、信徒だけではなく、キリストの祝福を求める方々をも受け入れてなされるものでしょう。式には、いつも教会に出入りしない多くの方も来て、教会を紹介する絶好の機会です。教会での結婚式が増える時代になるようにと祈ります。今回の花は、誠実な愛を表す真っ赤なチューリップとします。(2021/4/23)
今回は、「日曜日」について記すこととします。キリスト教にとって日曜日は特別な意味のある日です。クリスチャン・キリスト教信徒は、毎週、日曜日の朝になると教会に出かけます。病気や都合がある場合などを除いて、礼拝の日として日曜日には教会に集うのが定めになっています。教会では、日曜日を「主の日」、礼拝の日として特別に取り分けるようにと指導しています。忠実に信仰生活を守ろうとする人は日曜日に教会に行くことを義務としてだけでなく、楽しみともしています。
聖書の中には「日曜日に教会に集まれ」とは、不思議なことに一言も記されていないのです。旧約聖書・出エジプト記20章8節に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と記されています。十戒の第四戒です。「六日の間に、主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」。ユダヤ教では、この第七日の「土曜日」を「安息日」として礼拝をしています。
イエスもイエスの弟子たちも、この土曜日の安息日を忠実に守っていました。ユダヤ教の「会堂」礼拝は、例外なく土曜日でした。ところが今日、キリスト教会は、ローマ・カトリック教会も、プロテスタント教会も、ほぼ例外なく、日曜日を礼拝の日としています。しかし不思議なことに、旧約はもとより新約聖書のどこにも、礼拝の日を土曜日から日曜日に変える、変更するという「明文の規定」はないのです。
わたしは、改革派教会で、女性に教職・牧師職への道を開くことの課題で、たいへんな目に会いました。その1つが「聖書に明文の規定がないことは行わない」という規範原則なるものによる反対でした。新約聖書には女性差別とも言えることが多々記されており、勿論、女性の教師・牧師への明文の規定などはありません。そのため、長い間、改革派教会でも女性差別の状況が続いたのです。
教会にとって最も大切な「礼拝の日」の変更も、実は「明文の規定はない」のです。土曜日のユダヤ教安息日から、日曜日のキリスト教礼拝の日への変更は、イエス・キリストの墓からの復活が起源なのです。「週の初めの日」、主イエスはよみがえられました。今日の日曜日の礼拝は、イエス・キリストが死人の中から復活した圧倒的な恵みの出来事の記念なのです。「明文の規定」のある・なしの問題ではありません。生けるキリストとの出会いの日として、あなたも教会の礼拝に出席してみませんか。礼拝の中で、神の御言葉を通して、キリストと出会ってみてください。(2021/5/14)
キリスト教会は今、新型コロナウィルスの感染禍で苦悩の中に置かれています。いずこの世界でも同じと言われるでしょう。多くの教会では「ソーシャルディスタンス」ということで、平常の礼拝が出来ずに、時間差で分けたり、インターネットでの礼拝に切り替えたりと、いろいろと苦労しています。
その中で最も苦労しているのが「聖餐式」です。これからしばらく、「聖餐」を巡る話をしましょう。聖餐は、キリスト教では最も大切な生命的な「式・営み」です。キリストとの生命的な交わりの時です。キリストと共に、キリストを信じる信徒たち同士の、食卓の交わりです。教会によって具体的な内容は少しずつ変わりますが、パンを食べ、ぶどう酒(ぶどう液)を飲むという簡単なものですが、明確な飲食の時なのです。
コロナ禍で、この飲食の交わりが出来なくなっています。カトリック教会では毎礼拝が聖餐礼拝ですから、今はどうしているでしょうか。プロテスタント教会では、毎月一回、あるいは年に数度という程度ですから、しばらく休んでもいいのでしょう。しかし、その中でも、最近はいろいろ工夫したり、アイスコーヒーなどで用いる「ポーション・ミルク」と同じ用具を用いた、パンとぶどう液とを入れた一回限りのポーション形式の聖餐用具を海外から輸入して行っている教会も増えてきました。
聖餐は元々、キリストとの交わりの「象徴」ですが、なんとも味気なさを味わっています。アメリカでは、以前から車に乗ったままで礼拝をするドライブイン・チャーチで行っていたものです。食事の実質・実感、交わりの感覚が疎外されてしまっています。ポーションとは、小分けされた薬の「一服」、まさに「孤」なのです。1つのパンを皆で裂いて食べ、1つの杯から回し飲みする聖餐の本来の在り方から遠く離れてしまいました。コロナ禍の中にある教会が、本来の聖餐の在り方に回復されるのは、いつになるのでしょうか。今回の花は木蓮とします。しっかりと艶やかさを示していました。(2021/6/18)
ここでは、教会と食事について記すこととします。福音書はイエス・キリストの言行録と言っていいでしょう。福音書を注意して読むと、イエスの活動において食事・食卓の光景、あるいは食事に関わる言説が極めて多いのです。弟子たちとの食事、安息日の午後の食事、数回にわたる数千人への給食、その他「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」(ルカ福音書15:2)と言われたり、「大食漢で大酒飲み」(マタイ福音書11:19)とまで言われたりしていました。
福音書には「祝宴」についての言説が多く記されています。イエスの伝道活動と弟子たちとの交わりで食事・食卓は欠かせないものでした。罪の赦し、神との和解、神の国の完成を「祝宴・婚宴」として語られました。羊飼いの働きは「羊を飼う」(食事をさせる)ことです。イエスの活動と言説から「食事」に関わる事柄を除いたら、何もなくなると言っていいでしょう。この頂点に位置するのが「最後の晩餐」なのです。
ところが、今日の教会の営みの中で、この大切な事実が忘れられているのです。ある牧師は立派な大会堂を新築した時、「神の国は、飲み食いではなく…」(ローマ書14:17)という聖句を用いて「会堂内での飲食を原則禁止」させました。このような風潮が日本の多くの教会を覆っていることに暗然とします。日本伝道が進展しない大きな原因の1つは、建物を大切にする自己中心、美意識過剰、キリスト教の仏教寺院化です。鼻持ちならない大教会意識です。主イエスは黙って去って行くでしょう。
今日の教会の大切な課題は、伝道と教会形成の中心に「食事・食卓」を回復させることと言っていいでしょう。韓国の教会の在り方がお手本と言えるでしょう。なによりも、「食卓を囲む」、これが主イエス・キリストの伝道の在り方であったことです。病む者、社会的な弱者、貧しい人たち、課題を抱えて生き悩む人たち、このような人たちを迎え入れて「食事を共にする」。主イエスの伝道も初代教会の在り方も、基本的には同じでした。分け隔てなく、多くの人と「食事を共にする」、この教会の基本的な在り方が確立したら、伝道は自然に進展していくのではないでしょうか。(2021/6/25)
コリントの信徒への手紙Ⅰ」に、コリント教会で聖餐式と愛餐と呼ばれていた食事との混乱が記されています。その混乱を正すためにパウロは「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか」(1:22)と記し、家での食事を勧めています。これに従って以後、会堂の中では食事をしない風潮が生まれました。
これは初代教会の実情を理解しないところからきています。今日、多くのキリスト教会では、専用の礼拝堂で、日曜日の朝10時30分頃から礼拝を始めています。しかし、古代では日曜日も休日ではありません。当時の教会の構成員は奴隷などの下層階級の人がほとんどでした。そのため、コリント教会でも礼拝は一日の仕事が終わった夕刻から始めました。専用の会堂などはなく、個人の「家の教会」でした。理解の落し穴が、ここにあるのです。
早く集うことの出来る人とは、仕事をしなくてもよい人たちです。この人たちは早くから来て食事を始めます。遅れてくる人たちは下層階級の人です。分け合って、待ち合って、食事するという気風はなかったようです。この実際的な混乱の解決のために、日曜日に仕事をしないで済む裕福な人たちに家で食事を済ませて来ることを勧めているのです。
コリント教会では、礼拝を教会員の実情に合わせて夕刻から行っていました。礼拝を始める前に、仕事を終えた人たちが集い、簡単な食事をしてから礼拝を始めていたようです。この簡単な食事を「愛餐」と言いました。一日働いてきた人たちが軽く食事をして、ゆっくりと礼拝が始まります。この礼拝の中で「聖餐」が執り行われます。愛餐での混乱が「聖餐」の中に持ち込まれたのです。
パウロが願ったことは、第1に、聖餐の秩序を取り戻すことでした。第2に、愛餐を取り止めることではなく、各自持ち寄った食事を互いに分け合うことでした。余裕のある人たちが酔っ払うような飲食は自分の家でしろと言う。しかし、「愛餐」がなくなったわけではない。互いに分け合って食べ、遅れてきた人たち、貧しい人たちが空腹のまま礼拝をすることはなくなったでしょう。パウロは、愛餐を中止させたのではなく、聖餐と愛餐とを本来の在り方に戻したのです。
パウロの意図を正しく理解するためには、礼拝の時刻と場所について正しく理解することが必要です。当時の礼拝は、労働者が一日の働きを終えて、家の教会に集い、夕刻から始まりました。パウロの言葉を字義通りに受け取ると冷たい教会形成となってしまいます。今回の花は、桃の花とします。(2021/7/2)
皆さんは、「キリシタン」について、どのように理解していますか。わたしはプロテスタントですが、「キリシタン」について真剣に考えずにはおれません。戦国時代末期、1549年、フランシスコ・ザビエルが来日し、織田信長の時代に急成長しました。日本にもキリスト教信仰が紹介され、新しい時代の燭光が見えたのです。
ところが、徳川の鎖国体制確立の中で徹底的に誤解され、迫害と弾圧の中で逼塞しました。その影響はカトリック教会・キリシタンだけでなく、プロテスタントをも含むキリスト教そのものがゆがんで理解されて来ました。明治期以降、日本はキリスト教の背景を捨て去って文物・科学などを輸入し、木に竹を接ぐような「和魂洋才」という形で近代化をしてきました。その結果、今日、日本の精神性・思想性の貧弱さを露呈しているのです。
急激なキリシタンの流行と多くの有力キリシタン大名の急増等により、これを恐れた豊臣秀吉によってバテレン追放令(1587年)、長崎での26聖人殉教(1597年)が起こりました。続いて徳川幕府の時代となり、島原の乱(1638年)などにより、以後徹底的に迫害・弾圧されました。
その理由は、徳川政権の確立のためと、キリシタン自身の中にも内在していたと言っていいでしょう。イエズス会とフランシスコ会の争い、ポルトガルとスペインの争い、領土獲得の隠れた意志、貿易・商売の確執、バテレンの名誉欲などが競合していました。キリシタン弾圧を利用した仏教界の思惑も作用しました。
鎖国下で、キリシタンは「邪教、邪宗門」とされ、徹底的に誤解と恐怖の対象とされました。徳川時代270年余、踏み絵が行われ、キリシタンとされたら、本人だけでなく一族が処断されました。キリシタンは密やかに身を隠して生き延びざるを得ませんでした。やがて開国して「隠れ」から解放(1873年)されました。
今日もなお、日本では異端視され、邪宗門と呼ばれることもあり、キリスト教への偏見と恐れが色濃く残っています。しかし、キリスト教は決して邪教ではありません。キリストの救いの恵みを喜び、人を愛し、互いに仕え合って生きることを教える「真の宗教」なのです。また、個の確立と人権の意識、真の平等を実現するためには、唯一の神を信じるキリスト教こそが根源的な基盤を提供できるのです。(2021/7/24)
「アディアフォラ」という言葉を聞いたことがありますか。教会の中でも聞くことは少ないですが大切な言葉です。
「アディアフォラ」とは、聖書に「命じられてもいないけれど、禁じられてもいないこと」です。元はギリシャのストア派の哲学用語です。使徒パウロは、偶像に捧げられた肉を食べるか否かについて問われた時「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(Ⅰコリント書8:8-9)と答えました。これが「アディアフォラ」の基本です。
今日に移し替えると、飲酒と喫煙に相当するでしょう。日本にプロテスタント・キリスト教が宣教された時、禁酒・禁煙を伴う形で入ってきて、キリスト教的な生活倫理と見なされました。わたしは福音派と言われるグループで信仰に入りましたが、牧師が飲酒喫煙しようものなら白眼視され、信仰が疑われる時代でした。ところが、聖書は決して「禁酒」を命じてはおらず、最後の晩餐でも「ぶどう酒」が用いられました。タバコは聖書の時代には知らていず、大航海時代以後、南米大陸からもたらされたものです。
日本にプロテスタント・キリスト教をもたらした宣教師の多くは、イギリス、アメリカのピューリタンの末裔でした。禁酒禁煙は、英国の産業革命期にあった下層階級の人たちの悲惨な生活を踏まえてのごく実践的な生活指針でした。その歴史的背景を捨象して、日本では聖書的キリスト教生活の在り方として広まったのです。良いことではあっても、「聖書的在り方」として強制することが問題です。聖書は何も語っていないからです。
飲酒と喫煙を聖書的拘束から解き放つことが必要です。「食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」と、パウロが語る道筋で理解することです。「アディアフォラ」なのです。大事なことは、その行為が、自分と隣人の益になるかどうか、と言う視点を持つことです。自他の健康、その他の幅広い視点から考察して、各自が自由に判断し決断することです。
飲酒・喫煙だけではありません。生活に関わる事柄、実践的な事柄の領域で「思い込み、信念」のようなもので、自分の見解を他に強制するようなことが案外多いのです。「LGBT」に関わる事柄の多くも、そうではないかと、わたしは考えています。「これがキリスト教的だ、これが聖書的だ」と思い込み、一方的に断定するようなことは避けたいものです。キリスト教信仰をもって生きることは、多様な生き方があることを理解することが必要です。今回の花は、慎ましく咲くツツジとします。(2021/8/6)
今回は「修道院」について記すことにします。プロテスタント・キリスト教ではごく一部を除いて「修道院」を廃止しました。しかし今、わたしは個人的にですが「残念だったなあ」と思っています。確かにローマ・カトリック教会の修道院にはいろいろな問題が山積しています。神学的にも実践的にも問題だらけと言っていい存在です。そのため、思い切って廃止したことがやむを得ないものであったと思います。
宗教改革運動への反動として成立した戦闘的な「イエズス会」などもありますが、修道院はヨーロッパ古代から中世において成立し、活動した多くの修道院は地域社会にとって極めて有用なものでした。今日のように国家や地方公共団体が社会の福祉や救貧、社会インフラなどを担う時代ではありません。
修道院には、それぞれいろいろな特色がありますが、ごく大雑把に言えば、地域センター、学校、病院、ホテルのような機能を果たしていました。地域の子らに学問を教え、神学・哲学だけでなく、自然科学でも大学院・研究所の機能を持ちました。農業や必要な灌漑を指導し、品種改良に取り組みました。救貧や福祉活動、地域の医療を積極的に担いました。旅人を迎えて宿を貸し、食事を提供しました。人々に聖歌や聖画などを教えて音楽・美術の興隆の手引きをしました。
今日、これら社会事業の多くを修道院が担ってきた歴史が忘れられています。修道院は「教会」ではありません。閉じられた世界と言えますが、広い意味で教会の伸ばした腕として社会的な存在でした。近・現代では、修道院が担っていたこれら奉仕の業の多くは国家や地方自治体などが担う務めとなっていますが、世俗化し、深い精神性、心性と自由性を失っています。
コロナ禍の中の今こそ、かつてヨーロッパでペストや多くの感染症が猖獗(しょうけつ)を極めていた時代に修道院が担った社会的な奉仕の歴史を思い起こさねばなりません。インドでマザーテレサが担っていた終末期にある者たちへの奉仕の働きを思い起こすことも必要です。そして今日、もう一度、プロテスタント・キリスト教会は、「ディアコニア」(仕える奉仕)の働きを、教会の大切な使命、務めとして回復させることが必要でしょう。(2021/8/27)
コロナ禍の中で、キリスト教会はたいへんな悩みと労苦の中に置かれています。キリスト教会だけのことではありません。医療関係者、飲食店関係者、多くの業種の人たちから悲鳴の声が聞こえてきます。教会も同じように深刻な打撃を受けていると言って過言ではありません。世間的に知られていませんので、問題を指摘させていただきましょう。
キリスト教会にとってコロナ禍の中で最大の問題は、集会が出来なくなったことです。集会に制限をかけ、またはウェブ配信の集会になっています。しかし実は、キリスト教の特徴、特色は「直接性」にあります。イエス・キリストは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)と言われました。これが「教会」の基本です。二人三人が直接に合い、互いに祈り合う、そこにキリストが臨在されるのです。
顔と顔とを合わせて、手を握り合い、言葉を掛け合い、時にはハグする。悩みを語り、慰め合い、励まし合う、祈りの共同体です。イエスは「重い皮膚病の人」が遠く離れて助けを求めた時、その人の傍らに行き、手を触れていやされました。今日の言葉で言えば「ソーシャルディスタンス」を取らねばならなかったのですが、イエスはそれを無視し、社会的垣根を乗り越えて愛のみ業を行われたのです。
学校・大学ではオンライン授業がなされています。企業では70%のオンラインでの就業が求められています。人流を抑制するためです。しかし、わたし個人の見解ですが、教会の交わりはオンラインでは出来ないという理解に立っています。オンラインで「何もかも出来ない」などと言うつもりはありません。今まででも「通信」で成り立ってきた交わりも立派にあるのです。
わたしもウェブ配信での集会・礼拝も経験しました。まったく無意味ではありませんが、やはり「バーチャル・リアリティ」(仮想現実)です。教会の交わりは、共に飲食する交わりなのです。病む者を訪れ、愛する者を召され悲しむ者と共に悼む。これが教会がしてきたことです。ウェブ配信の礼拝も「真実の礼拝だ」と考えてはならない。代用品で「バーチャル」(仮想)に過ぎません。コロナ禍の中でも「真の教会の交わり」を持つことを努力しなければなりません。コロナ禍はやがて収束するでしょう。その時に、教会とキリスト者は「真の教会性」をいち早く回復するでしょうか。心配でなりません。今回の花は、秋の儚い花「オミナエシ」とします。(2021/10/1)
キリスト教会には、いろいろな形での「宣教師」と呼ばれる人たちがいます。多くは「牧師」と同じように教会で伝道の働きをしていますが、病院で医療宣教師として、学校・大学で「教育宣教師」として働いている人たちもいます。
「宣教師」と呼ばれている人たちは、大体、外国の人たちです。わたしたちの日本キリスト改革派教会も、現在、北アメリカから、南アフリカから、韓国から、多くの宣教師を受け入れています。同時に、わたしたちの小さな教派教会からもいろいろな形で、いろいろな国に宣教師を派遣しています。北アメリカに、アフリカのガンビアに、近くハンガリーにも派遣されるでしょう。以前は、英国、インドネシア、フィリピン、アルゼンチンにも派遣していました。
このような宣教師の相互派遣ということは、他の宗教ではあまり見られません。キリスト教会の特色の一つと言っていいでしょう。キリスト教会は、基本的に世界を包含していると言っていいのです。日本人だけの特殊な信仰ではなく、人種、民族、国籍を超えての共通・公同の宗教、信仰なのだという自覚から来ているのです。教会は国家を越える存在なのです。互いに独善的な在り方を排して、互いに学び合い、教え合い、交流し、支え合って、国を超えての「キリストに在る交わり」を具体的に示す。これが「宣教師」の存在の意味です。
70数年前、アジア・太平洋戦争が始まる前、日本政府は海外から来ていた多くの宣教師を追放しました。帰国を受け入れない宣教師たちは1個所に収容しました。宣教師をスパイと見てのことです。鎖国したと言っていいでしょう。その結果、日本のキリスト教会は、教会としてのあるべき道から大きく逸脱してしまいました。宣教師の存在は、キリスト教会の健全さを示す大切な存在なのです。キリスト教会は、それぞれの民族的な特色を持ちつつも、基本的には世界的な同一性、世界に開かれた存在なのです。(2021/10/29)
キリスト教会の礼拝プログラムでは、ほぼ必ずと言っていいでしょう、「献金」という部分があります。これについて、問われることがしばしばあります。このインターネット「オープンチャーチ牧場」では、一切献金に類することはしていませんが、キリスト教信仰にとって大事なことですので、取り上げておきましょう。
「献金」とは、どういうことでしょう。礼拝のような聖なる時の中で、俗的な「お金」を取り扱うことに批判的な人もいます。無教会グループでは、献金という言葉を用いないで「聴講料」としているところもあります。あるいは神社仏寺のお賽銭のようなものでしょうか。いずれもまったく違うと言わねばなりません。
礼拝のプログラムは、大きく2つの行為によって成り立っています。1つは「神の行為」です。神の招き、罪の赦しの宣言、神の言葉の説教、主の食卓、祝福などです。もう1つは「信徒の行為」です。賛美、祈り、聴取、告白、奉献などです。これらが適切に交互に組み合わされて礼拝のプログラムは形成されているのです。この「奉献」が献金という形でなされているのです。
礼拝の中で、神によって罪の赦しが確認され、神の子であることを確証され、神の言葉に励まされ、神との交わりに生きる者であることを示され、これらの恵みに感謝して神を賛美し、身を捧げて生きる「献身」をもって応答するのです。これが「奉献」です。この献身・奉献を具体的に表すしるしとして、古代・中世では農民などの作物をもってなされました。近世になり、貨幣経済の時代になって、献金となってきたのです。本来は、神の恵みに対する信仰的応答の表明なのです。
しばしば金額を問われますが、「自由」とお答えする以外ありません。神の恵みを覚えて、恵みに感謝して、感謝の応答として、神にあって生きる決意を表明するものですから、各自一人ひとり、自分の信仰の行為として捧げるのです。「献金」においては、いつも、この信仰的な視点が見失われることのないようにしたいものです。そのため、まだ、神の恵みについて「よく分からない」人は、捧げる必要はありません。教会では献金の強制はしないはずです。今回の花は、感謝を表す花「カンパニュラ」釣鐘草とします。(2021/12/10)