インターネット・オープンチャーチ牧場の「祈りの水路…主の祈り解説」は終わりとしました。それに続いて、これからしばらく「十戒」の解説をしてまいりたいと思っています。と言っても「十戒」の字義的な解説ではつまらないと思っています。
「十戒」というと、一般的にも、キリスト信徒と言われている人たちでも「個人的な倫理、道徳」、あるいは「人の生き方の規範」と思われているようです。これはキリスト教会の従来からの取り扱い方にも原因があります。ルター派では、基本的に罪を指摘する規範として取り扱います。改革派では、信仰者の感謝の生活の道筋として取り扱います。いずれも個人的な側面が強くなっています。
しかし元々、モーセの「十戒」は、神の民とされたイスラエルの民の形成の原理として与えられたものです。十戒の語る「あなた」は決して個人への呼びかけの言葉ではなく、集合人格としての「イスラエルの民全体」が「あなた」と呼ばれているのです。社会形成の原理、社会の在り方の指針として与えられたものです。この視点から、十戒に基づいての相当自由なお話をさせていただこうと願っています。
翻って、わたしたちの住む国、日本は「戒なき国」ではないかと考えています。神道には元から「戒」などはありません。「清浄」ということは言われますが、「戒」などはまったく聞きません。仏教では「小乗戒」、「大乗戒」などがあり、受戒、戒名と言う言葉が語られてきました。しかし、今日の日本では一部の人たちを除いて「戒」について自覚することはほとんどないと言っていいでしょう。今日、僧侶と言われる人たちも「戒」に従って生きている人がどれほどおられるでしょうか。むしろ「破戒」を楽しんでいるのではないでしょうか。
牧師を引退してからはじめて「源氏物語」を読んでみました。原文を読む力はありません。瀬戸内寂聴さんの現代語訳で数ヶ月かけて読みました。皆さまもよくご存じの光源氏の多くの魅惑的な女性たちとの交際、恋愛、情愛、栄光と没落、権力闘争を描いた長編小説です。もののあわれや無常観にはこころ引かれる思いがしますが、読み終わって強く感じたことは「戒」がないことでした。「戒」がないということは社会的な規範がないということです。
その「戒」についてのメッセージを明確に語らねばならないのが宗教者の責任なのではないだろうか、と思い立ったわけです。「戒」は、決して実定法ではありません。こころに訴える神の法なのです。これが分からないから、さらに言えば、その「戒」がないから、日本全体で、法律に触れさえしなければ、なにをしてもいいという風潮が、今日、あちこちで見られるのではないでしょうか。
キリスト教では「戒」と言えば「十戒」を意味しますが、ここではもう少し日本社会の中での「戒」を考えてみたいと思います。
「戒」について、新辞林では「いましめ、訓戒、仏教の信者が守るべき行動の規範、戒律、禁戒」とあります。広辞苑でもほぼ類似の解説が載っています。今日、日本語の「ことば」としては立派に存在していると言っていいでしょう。しかし、おそらく縄文・弥生を継承する古代文化の中には「戒」に相当する言葉はあったでしょうか。「しきたり」、あるいは「禁忌」に類する言葉はあったかもしれません。
仏教が到来し、日本に定着する中で「戒」も外来語としてもたらされたものでしょう。「受戒」という言葉が登場します。仏教の戒律思想が紹介され、最澄によって「大乗戒」が主張されました。問題は、日本社会の中でこれらの「戒律」が「仏教の信者が守るべき行動の規範」として、本当に生きていたかどうかでしょう。「戒」が生きる社会であったかどうかです。
一部の例外はありますが、わたしは、日本では人と社会との行動を大きく規制・制御する規範としての枷(かせ)は持ってこなかったと言ってもいいのではないかと考えています。「無戒」の民であったと言っては言い過ぎでしょうか。ここから、今日の政治家や官僚たちに至るまでの無規範な行動、法的な規範さえも無視して平然としている社会、そしてそれを許している風土があるのです。
聖書の宗教・キリスト教は、「十戒」の民であることを主張します。「十戒」は「信者が守るべき行動の規範」です。キリスト信徒は、このように生きるのだという明確な指針と規準があるのです。キリスト教の信徒は「戒」を持って生きるのです。と言っても、キリスト信徒はすべて戒を守っているわけではありません。「破戒」の連続と言っていいでしょう。そこに「罪の自覚」が生じます。破戒しつつも、罪を自覚しつつも、なお行動の規範として「十戒」を持つのです。
日本で、キリスト教がなかなか理解されない、受け入れられない、最も大きな基本的な理由が、この「戒」にあると言ってもいいと考えています。従来、日本の風土にキリスト教が土着化しない理由として「先祖崇拝」が挙げられてきました。キリスト教では祖先を尊敬はしますが、「神仏」として崇拝することはありません。わたしも、この祖先崇拝がネックであることに異を唱えるものではありません。ただ、これは少々表面的だと考えているだけのことです。
仏教の渡来と受容において、日本社会では「戒」が骨抜きにされてしまいました。キリスト教の土着化においても大切な「十戒」が虚しくなってしまってはならないのです。この国に「戒」のある社会を確立させていかねばならないのです。
キリスト教は、明確に「戒」(律法)持つ宗教です。しかし、イエス・キリストは正面から律法主義と戦われました。「十戒」を持つことは大事なことですが、どのような意味で「十戒」を受け止めるのかが問われるのです。
イエス時代のユダヤ社会は「律法主義の世界」であったと言っていいでしょう。律法主義とは、単に律法を堅持しているというだけのことではありません。基本的には「トーラー」と呼ばれていた十戒(10の言葉・10の戒め)ですが、これを厳格に守るために、これら10の戒めの周囲に厚い塀を造り上げたと言っていいでしょう。時の経過と共に詳細な規定が非常に増えていき、613の「掟」が出来ていました。安息日について、姦淫について、殺人についてなど、十戒はそれぞれ1つずつの戒めですが、その周囲に十戒を守るために垣根のようにして厳格な掟を作り上げたのです。そして、これらの掟の解釈と適用のために「律法学者」と呼ばれる人たちが存在していたのです。
さらに大事なことは、これらの律法と掟を遵守することによって「神の民」「十戒の民」であることが証しされたということです。つまり、律法を守ることによって救いがあると考えられていたのです。行為義認と言っていいでしょう。「律法主義」とは、律法堅持のために、律法の回りに詳細な掟を張り巡らせて、律法さえ守れば救いがあると考えることです。
これは、旧約聖書の指し示していることとはまったく逆の在り方でした。旧約聖書は単なる律法の書ではなく、罪人の救いのための道筋を示す書でした。律法はその遵守によって救いを得るための道筋を示すものではなく、神を信じて神に救われた者たちが生きるための指針であったのです。
イエスが、ファリサイ派・律法学者と呼ばれていた人たちと戦ったのは、ここにあります。イエスは決して無律法主義ではありません。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ福音書5:17-18)と語りました。イエスは律法の真意を明確にし、律法を与えられた神の御心の実現のために戦い抜かれたのです。
聖書における「律法」とは、人が神と共に生きるための指針、道筋です。この世界は神の造られた世界です。「神、あり」とするところで、その神と共に生きる道筋なのです。もし、「神、なし」とするならば、基本的には無律法になります。力だけが支配する世界となります。「神、あり」とするところで、「戒」が存在するのです。
「十戒」の解説に入る前に、もう1回、余談として「人間の自由」と律法について取り上げておきましょう。「律法(戒)のようなものは、人の自由を奪うものではないのか」と問われることがあります。案外、このようなところでつまずく人も多いのではないかと思っています。
これは、人の自由をどのようなものと考えるかによるのです。人の自由は決して無限定なものではありません。人を殴っても自由、人に迷惑をかけることも自由、自分さえよければいい、と言うようなことでは決してありません。今日はこの種の自由が自由なのだと受け止められているのではないでしょうか。これらは手前勝手であって真の自由なのではありません。
人を傷つけ、人の尊厳を奪い、人の財を奪い、環境問題を引き起こし、お金さえ儲かればそれでいいというような生き方が横行しています。聖書ではこのような生き方こそ、「罪」と呼ばれる不自由な生き方なのだと語ります。真の自由な生き方と真逆な生き方です。奪い合う自由、傷つけ合う自由、殺し合う自由が行き着く先は、破滅以外ないでしょう。今日、多くの人がこのような手前勝手な生き方を自由と勘違いして、世界全体を息苦しくし、世界を混乱に落としているのです。
車は、道路を交通信号に従って走る時に「自由に走る」のです。電車は、軌道上を管理されて走る時に「電車として生かされている」と言えるでしょう。車が道路以外を乱暴に走ったら事故になります。電車が無軌道に走ったら壊れてしまいます。人は、神によって「このように生きなさい」と造られた存在です。
真の自由な生き方とは、神を見上げて生きる生き方と言っていいでしょう。人間だけでは基本的には相対の世界です。神という「絶対」の起点がないのです。イエスは「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8:32)と語りました。ここで語られている「真理」とは神のことです。神を知り、神に生きるところで真の自由を得るのです。
神を知ること、神を信じることは、決して人生と世界とを狭めるものではありません。神を知るところで、人は人として真の自由を獲得するのです。人が自由を獲得して、真に人らしく生きる道が「神の律法に従う」道なのだと言っていいでしょう。神から独立し、神を離れ、神を見失って生きる道は、自由なようですが自己中心の世界であり、自我に囚われた不自由な生き方となるのです。互いの自我と欲望が衝突し、交通整理の出来ない、戦いの世界、罪と暗黒の世界になるのです。
神を知り、神に在って生きる道は、神の意志である「律法」に導かれて、神と共に生き、神にあって隣人と共に生きる自由な世界を形づくることになるのです。
いよいよこれから「十戒」の解説に入ってまいります。今回は「十戒」の内容に入る前に、十戒の要約、一言で言えば「十戒とは何か」についてお話しします。
キリスト教信仰の内容を簡明に記したものに「ウェストミンスター小教理問答」というものがあります。その第42問で「十戒の要約は、何ですか」と問い、「十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです」と答えています。
これは、イエスの語られた言葉に基づいているのですが、基本は「愛すること」です。十戒(戒)、律法と言えば、「……してはならない」という消極的な禁止事項に目が行き、厳しい掟だと考えるのではないでしょうか。決してそうではありません。積極的に愛することなのです。「神を愛する」、「自分を愛する」、「隣人を愛する」。これが十戒の要約であることを、しっかりと受け止めていただきたいのです。
聖書は、しばしば「神の愛の書簡集」と言われます。聖書は最も基本的に神の愛を物語るものです。神は愛をもって万物を造られました。神は愛のうちに人を神の形に造られました。神は愛をもって罪人となった人を救済してくださいます。神は愛をもって人との交わりを回復し、神の国を完成してくださいます。聖書は、徹頭徹尾、神の愛の物語なのです。
律法である「十戒」も、神の愛が大前提になっています。新約聖書・ヨハネの手紙Ⅰに「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(4:7-8)と記されています。神が愛であり、先ず、神が人を愛してくださった。この神から生まれ、この神によって救い出された。ここから「十戒」は始まるのです。この大前提を忘れてしまうところで、暗く、煩瑣な、冷たい律法主義が生まれてくるのです。
神に愛されたものとして、その愛への応答として、3つの愛の方向が指し示されているのです。1つは、上の方、「神を愛すること」です。十戒の前半部分となります。2つは、「自分を愛すること」です。これは単なる自己愛ではありません。神に愛されている自分を肯定することです。そして3番目に「自分を愛するように、私たちの隣人を愛すること」です。同じように、神に愛されている隣人を肯定し、認めるのです。これこそ、人間としての生活の根本的な生き方です。
神を愛することなしに、他者を人格として認め、愛することは出来ないでしょう。神を愛することを見失った隣人愛は、「限りなく奪う愛」となります。自分と同じ人格を認めて、そこに価値を認めるところで「隣人を愛する」ことが可能となるのです。
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。(出エジプト記20:1-2)
これから「十戒」の解説に入ってまいります。今回は「十戒」の序言を取り扱います。「十戒」は、旧約聖書の出エジプト記20章に記されています。十戒は「序言」を持っています。十戒の成立基盤、十戒を理解するための基本的な意図と精神が語られているのです。日本国憲法の「前文」と同じように、と言っていいでしょう。十戒は、この序言を踏まえて解釈し、理解されねばならないのです。これを忘れてしまうところで「律法主義」が生じてしまうのです。
上記の「出エジプト記20章1-2節」の言葉が、十戒の「序言」です。この序言は、主なる神がイスラエルの民に十戒を与えた根拠が物語られています。先ず、「わたしは主、あなたの神」と自ら名乗りを上げられます。神は、「わたし」と言って、わたしたちに近づいてくださる人格を持つお方です。このお方は、「わたしは主」(ヤハウェ)と名乗られます。かつてモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました(出エジプト記3:14)。この「ある」とは、哲学的・抽象的な「存在」を意味するだけのことではなく、神の民イスラエルを選び、愛して、いつもこの民と「共にある」ことを決意してくださったお方が「ある」(ヤハウェ)ということの意味なのです。
次に、この序言は、神によるイスラエルの民の救出を物語ります。「わたしは、…あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と語られています。イスラエルの民はエジプトで奴隷状態で過ごしていました。この苦難の民を救い出すために、神はモーセを立てて指導者とし、全能の力をもって紅海を2つに分けてエジプトから解放してくださいました。このエジプトでの奴隷状態から自由な身分へと解放してくださったゆえに、この出来事を根拠にして、「あなたは、このように生きなさい」と言われているのです。これが「神の民として生きる十戒」です。
この出エジプトの出来事が、今日のわたしたちにも当てはめられているのです。神は、罪によって苦しみ滅び行く者たちを愛し選び、イエス・キリストによる十字架の出来事を通して、罪を贖い、滅びから解放してくださいました。旧約時代の出エジプトの出来事は、イエス・キリストによる神の救い…十字架と復活による罪人の救済の出来事の先取りであり、ひな形でした。ですから、キリストによって罪の奴隷から救い出されたわたしたちにとっても十戒は意味を持つのです。キリストによって救い出されました。そのゆえに「あなたは、このように生きなさい。生きるべきだ」と示されたのです。十戒は、神に愛され贖い出された者たちの生きるべき道なのです。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記20:3)
これから「十戒」の内容の解説に入ってまいります。上記の言葉が「第一戒」です。この第一戒が示していることは、「あなた」と呼びかける神「ヤハウェ」以外を神としてはならないということです。唯一神の主張です。
「わたしをおいて他に」とは、新共同訳聖書の訳し方です。「わたしを差し置いて他に」という意味です。この言葉はいろいろに訳されてきました。「わたしの前に」、「わたしの他に」、「わたし以外に」、「わたしの顔の前で」などと訳されています。基本的には、他にどのような神々があっても、「わたしを差し置いて、わたし以外に」、それらの神々を「神としてはならない」という言葉です。
「十戒」の第1の主張は、主なる神(ヤハウェ)以外の神々を、いかなる場合にも神としてはならないという主張です。他にいろいろな神々がいるかどうかではなく、たとえ、世にどのような神々がいたとしても、あなたにとっては「わたし以外に神はいない」という主張なのです。単なる「単一神」の主張ではありません。例え、世には多くの神々があったとしても、あなたにとっては神は唯一、「わたし、ヤハウェだけなのだ」という主張です。これが唯一神教と言われるものです。
第一戒は、唯一の神以外に、神々がいるかいないかという議論はしていません。他に神々と言われるものがあってもなくてもかまわない。ただ「あなたにとっては、神はわたしだけだ」ということなのです。「あなたは、あなたを愛して救い出したわたし(ヤハウェ)だけを神としなさい」という主張なのです。
この第一戒は、神々があるかないか、或いは神は多数か単一かという客観的な議論ではありません。他に「神々」と言われるものがあってもなくても、「あなたは、わたし(ヤハウェ)だけを唯一の神としなさい」という交わりの関係への招きの言葉と言っていいでしょう。「あなたとわたし」、「汝と我」という人格的な愛の交わり、愛の関係の中に入っているのだということなのです。唯一神信仰とは、一夫一婦のような交わりの関係にあるということなのです。このような親密な関係にあるものとして、「わたし以外に他に神はいない」ということです。
唯一神信仰とは、このように生ける唯一の神との生きた人格的な交わりの関係なのです。「あなたにとって、わたし以外に神はいない」という主張です。生きた人格としての神と、人格をもって交わりをする。これが聖書の神信仰、キリスト教信仰の基本なのです。人格的な愛の交わりの信仰です。「あなたは、わたしだけをあなたの神としなさい。わたしだけに目を注いで生きるのだ」ということです。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記20:3)
今回は「第一戒」の内容について記すこととします。「十戒」の基本は、この第一戒にあります。十戒の基本は「あなた」と呼びかける神「ヤハウェ」の前に立つ意識、自覚なのです。唯一絶対のお方がおられるという自覚です。この自覚、精神、エートスが第一戒なのです。神の前に立つ意識・自覚です。これがすべての人の生き方、倫理の基本です。
これが多神教の世界、相対的世界観の生き方と異なる道を指し示すのです。唯一の絶対的な人格神がおられ、このお方の前で生きる。これが、聖書の神を信じる者の基本的な生き方なのです。この神の御前で生きることを受けとめるところから、その人の生き方が変わってきます。洋の東西を問わず、すべての人には、いろいろな欲望があります。快楽を求め、豊かに生きたいと、だれでも願うでしょう。しかし、神が見ておられ、やがて神の御前に立つという意識・自覚、エートスがあるところでは、ブレーキがかかる、自己規制が生じるのです。
多神教の世界、相対的な世界観では、すべての価値は相対的になります。あいまいになり、適当になり、その場限りのものとなります。「駄目なものは駄目だ」と言うことがなくなる世界です。すべてのものが許容され、うまくごまかした者が勝ちという世界になります。今日の日本の社会は崩壊現象を呈しています。政治の世界も、法の世界も、経済界も、教育の世界でも、すべての面で「いい加減になり、ごまかしが横行」しています。これに、精神的にストップを命じる基本的な構造がないからです。流れていく世界です。
宗教改革者のジャン・カルヴァンという人は、常々「神のみ顔の前で」(コーラム・デオ)と語っていたと言うことです。これはたいへん大事なことです。実は、第一戒の翻訳にも問題があります。新共同訳では「わたしをおいて他に」と訳し、新しい「新改訳2017」でも「わたし以外に」と訳しています。しかし、古い文語訳では「汝、我が顔の前に、我のほか何ものをも神とすべからず」と訳しています。「我が顔の前で」というのが直訳と言っていいでしょう。省略してはならない言葉です。信仰生活とは、神のみ顔を意識して生きることです。
聖書の世界でも、神を信じた人たちの世界でも、人は多くの失敗を犯します。罪を犯すのです。唯一の神を信じる人は罪を犯さないのではありません。失敗し、罪を犯します。しかし、罪を罪として指摘する基準が厳然と存在するのです。絶対的な神がおられるということは、この神のみ顔を意識して生きることなのです。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記20:4-6)
今回は、十戒の「第二戒」に入ります。第二戒については、キリスト教会の中でカトリック教会とプロテスタント教会とで取り扱いが異なります。カトリック教会の十戒では、この第二戒がありません。上記の聖書個所を第一戒の中に入れ込んで読み、プロテスタント教会の第三戒を繰り上げて第二戒としています。その理由はマリア像や諸聖人の像などの存在を許容しているからだろうと思います。
この第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」は、第一戒の反復では決してなく、固有の大切なメッセージを持っています。第二戒は、唯一の神・ヤハウェ以外の神々を持つことの禁止を大前提として、その神礼拝の助けとなる補助手段としての神と神々の画像を造ることの禁止なのです。神礼拝の手段についての規制と言っていいでしょう。
古代では、世界を天と地とその下の地下(海)の三階層で考えていました。そのすべての神の被造世界の中で、礼拝のための補助となる人の手になる「どのような像」をも造るなという命令なのです。人間は、神そのものを見ることは出来ません。そこで、神(神々)を必要とする人間は、自分たちが経験し、見聞しているもの・被造物の中から、神(神々)のイメージを探し出し、それを描き、刻み、造り上げて、神のイメージとするのです。
この第二戒で禁じられているのは、異教の神々の像(画像)だけでなく、なによりも唯一の神(ヤハウェ)の像のことでした。わたしたち人間には、なんとかして直接的、感覚的な確かさをもって神と出会いたいという宗教的な願望があります。このような宗教的な願望は、神の民とされたイスラエルでも例外としません。この「像」の禁止問題にはイスラエルの民の歴史が踏まえられているのです。
モーセがシナイ山に登り、神の啓示の言葉を受け取るために時間がかかり、なかなか帰ってきませんでした。そこで、不安になったイスラエルの民は祭司アロンに「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と頼みます。すると、アロンは金で若い雄牛の鋳造を造り、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(出エジプト記32章)と言ったのです。
この金の子牛像は決して異教の神像ではありません。彼らは子牛の像を介して、見えない神との交わりの確かさを求めたのです。しかし、これに対して神の怒りが燃え上がります。新共同訳の「わたしは熱情の神」は問題のある翻訳です。「ねたむ神」と訳すべきです。「ねたむ神」とは人格神の主張です。人の手になる像を介しての神との交わりは、神の人格性を否定し、唯一の生ける真の神を異教の神々の列に引きずり下ろす業だからです。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記20:4-6)
今回も十戒の「第二戒」を取り扱います。この第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」を、一切の絵や彫刻などの禁止と理解する人たちがいます。それは大きな間違いだと思います。神の造られた世界の素晴らしさ、人や動物の美しさと逞しさ、草花の可憐な美しさなどに感動して模写し、模刻することは、人の芸術活動として大いに認められ、賞賛されるものでしょう。
この第二戒は、あくまでも神礼拝に関わります。「ひれ伏したり」、「仕えたり」という礼拝行為に関わるのです。この礼拝行為の中に、人の芸術活動の所産である画像などを持ち込むことが「偶像礼拝」と言われるのです。礼拝の中で、画像などを見て、感動し霊感やインスピーレーションなどを受けるのは、鑑賞する人間が主体になります。聖書の神は、そのような不確かさにおいてご自身を現すお方ではありません。「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった」(申命記4:15)。神は火の中から「語られる神」であり、人は「何の形」をも見ることはなかったのです。
聖書の神は、ご自身の存在とその御意志とを「ことば」を用いて語られるお方です。火の中からモーセに語られ、多くの預言者を用いて「語られる神」です。また、人の祈りの言葉を聞かれる神です。生ける真の神は、目に見える可視的な手段ではなく、「ことぱ」を介して交わりをする生きた人格としての神なのです。「ひれ伏し」「仕える」という礼拝行為は、言葉を介した生ける神と生きた人間との生ける人格的な交わりによって成り立つのです。
キリスト教は決して絵画や彫刻などを否定する宗教ではありません。自由に自然の事物を模写し、芸術的な感性を高めていいのです。人の手になるすばらしい作品を鑑賞し評価していいのです。ただし、それらのものを「神礼拝」の対象や手段、信仰の補助として用いてはならないのです。それは画像を造る人間を主体とすることとなり、そこに霊感を求める人間が中心となります。礼拝における画像は、御言葉によって語りかける神を排除することになるからです。
第Ⅱスイス信仰告白では「まことに神は霊であり、目に見えず、無限の本質であるから、何らかの手段、あるいは画像によって、神を表現することは出来ない」(4項)と記しています。さらに、ハイデルベルク信仰問答では「神は、もの言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えることを望んでおられるのです」(98問答)と記します。これが、第二戒の基本的な意味なのです。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。(出エジプト記20:7)
今回は十戒の「第三戒」を取り扱います。第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。この戒めは、どのような意味を持つのでしょうか。第三戒は、基本的には神礼拝に関わる事柄で、真の宗教と呪術との混同を許さないということです。
よくある質問です。「『みだりに』とは、どういう意味か。何回程度まで、神の名を呼んでもいいのか」と問われます。特に、祈りの中で「主よ、主よ、…」激しく神を呼び求める祈りを聞くような時に、しばしば問われます。そして、このような回数を問う考え方から、ユダヤ教ではとんでもない方向に走りました。
それは神の御名を「みだりに」呼ぶことへの恐れから、「主の名」ヤハウェの神名を徹底して口に挙げないということにしました。聖書の中には「ヤハウェ」(主)の御名は至るところに出てきます。当然のことです。しかし、聖書を読む時も、神名・ヤハウェが出てくるところで、同じ「主」を意味する「アドーナイ」という語をもって読み替えたのです。機械的に「ヤハウェ」を一度も口にしなければいいのではないかという、まことに律法主義的な考え方によるものです。
「みだりに」とは、決して回数の問題ではありません。ある英語の翻訳では「in vain」と訳しています。「虚しく、空虚に」です。人間は、神礼拝において偶像を産み出すように、人は自分の欲望や願望を達成するために神を利用する魔術や呪術を産み出します。呪術でも神の御名を呼ぶのですから、一見、宗教的敬虔に見えましょう。しかし、そこにあるのは他の御利益宗教と同じレベルの「神名の利用」でしかありません。生ける真の神を「アラジンのランプ」に出てくる魔神のような「しもべ」にしてしまう行為なのです。
神の御名「ヤハウェ」は、主なる神の臨在そのものです。神の御名を呼ぶことは、生ける真の神と相対して、神を礼拝する行為です。それが「主の名を呼ぶ」ことです。ウェストミンスター小教理問答では、「第三戒では、何が求められていますか」と問い、「第三戒が求めている事は、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです」(第54問答)と答えています。
神の御名を「みだりに」唱えてはならないとは、何回以上ということではなく、公的にも・私的にも、神を畏れて、神に礼拝と祈りを献げる時以外に、自分勝手に用いてはならない。神は聖なるお方であるということです。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。(出エジプト記20:7)
今回も十戒の「第三戒」を取り扱います。第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」ですが、この戒めには「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」という厳しい処罰が付されています。この戒めにかかわる事柄が人の生活の中に容易に入り込んでくるからです。
聖書注解者の多くは、この第三戒は「呪術」(魔術)と関わりを持っていると記しています。宗教と呪術と、どう違うかということは宗教学の大きな課題ですが、一括りにしている宗教学者が多いようです。呪術とは、神々あるいは仏の名を呼んで、人間が超自然的な力を得て、一方では予見される災いや災厄を取り除き、他方では福運や幸運を招来するものと言っていいでしょう。この呪術の基本にあるのは自己の都合、自己救済の道です。神とか仏というものが例えあっても、それを自分の願望達成のために使役しようというのが「呪術」なのです。
これらは日本の神道・仏教、神社仏閣で盛んに行っていることです。いろいろなお祓いや招福のための儀式を熱心にしています。日本の伝統的宗教は、宗教と言うよりも「呪術」であると言っていいのではないでしょうか。また、伝統的宗教から派生してきた新興宗教は一層呪術性を強調しています。呪術は日本だけでなく、古代世界から現代に至る多くの宗教信仰の中に潜んでいるのです。
第三戒の「みだりに」という言葉は、元々、ものをぶっつけたり、やかましい物音を立てることから来ているとのことです。機械的に、あるいは狂信的に、神名や経文を繰り返し、呪文のように唱えて、自分たちの願望・自分たちの御利益を叶えさせようとする。これが「みだりに」という言葉で禁じられていることだと言っていいでしょう。敬虔な言葉の不敬虔な使用が禁じられているのです。
聖書の信仰、キリスト教信仰においても「祈り」があります。「日用の糧」について祈り求めなさい、と勧められています。「求める者は得る」と約束されています。これらの祈りと呪術とは、どこが、どう違うのでしょうか。悩ましい問題と言えます。キリスト教信仰にも宗教的側面があることを認めねばならないでしょう。しかし、「神を呼ぶこと」は礼拝行為であることをしっかり確認することです。わたしたち人間の欲望達成のために神を利用するのではなく、神の主権を認めて、神に仕えるために「神の名を呼ぶ」のだということです。生ける神との人格的な交わりから外れて、自己の欲望達成のために礼拝行為を利用してはならないのです。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)
今回は十戒の「第四戒」を取り扱います。第四戒は、理由についての長い文章が付いていますが、戒めは簡単で「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。大事な言葉が2つあります。「安息」と「聖別」です。「安息」という言葉は少し解説を必要とします。元の意味は、休む、中止する、止める、という意味の言葉です。「安息日」とは、他の6日間とは区別して労働や仕事、働きを「休む日、止める日」だということです。その意味で「安息日」と呼ばれます。
「聖別」と訳された言葉は、「区別して取り分ける」という意味の言葉ですが、「聖別」と訳されたのは「神のために」ということが含められているからです。1週7日間の最後の日を、通常の仕事、労働を中止して、神のために取り分けることが「聖別する」ことです。
旧約聖書の冒頭に、神が天と地を造られた物語が記されています。神は天地創造の大事業を「6日間」で行われたと記します。勿論、実際には1日24時間×6日ということではありません。創世記の考え方です。6日間での創造の働きの後に、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世記2:1-2)と記されています。
この神の安息に対応するのが、十戒の「安息日」の規定なのです。神が創造の業・仕事を終えられました。そして、神は第7日には、創造の仕事を離れて安息し、造られた世界を祝福するために聖別されたのです。神は創造の大事業を完成して、創造のみ業から離れました。しかし、その後、神は造られた天地を祝福するために、第7日を「聖別・特別に取り分けた」と記されるのです。
第7日は、神が被造世界を祝福されている日なので、これに対応する形で、人も働き・仕事を離れて、神の祝福に向き合うこと、神の祝福にあずかることが求められているのです。安息日を聖別するとは、6日間の仕事を止める、中止するだけでなく、神に向き合い、神の祝福にあずかる、神礼拝を守ることなのです。安息日とは、レジャーの日ではなく、神に向き合い、神を礼拝する時なのです。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)
今回は十戒の「第四戒」の誤った理解について取り扱います。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という律法の根底にあるのは、礼拝の「時」を神が握っておられるということです。他の6日の間は、人の自由な管理に委ねられています。仕事をし、遊ぶことも自由です。それぞれの人が、それぞれの人生設計によって、働き、学び、恋もし、遊んでもよいのです。
しかし、第7日の安息日は、わたしたち人間の自由に出来ない日で、「神が握っている」神の時です。人間の自由勝手に出来る日ではなく、神が聖別している神の時です。実はこの理解がユダヤ教ではあらぬ方向に走ってしまいました。安息日律法を厳守するために極端なまでに神経質になりました。「いかなる仕事もしてはならない」ので、「仕事」と見なされるものを徹底的に禁止しました。火を起こし食事を作ることも、ペンを用いることも「仕事」とされました。安息日律法の周囲に大きな「掟」の柵を設けて、その柵を超えなければ「律法を守っている」ことになると考えたのです。
このような当時のユダヤ教律法主義の考え方に対して、イエスは徹底的に戦いました。安息日に空腹になったイエスの弟子たちが小麦畑の麦穂を摘まんで殻を除いて食べているのを見たファリサイ派の人たちが騒ぎ出した時、弟子たちの行為を擁護しました。安息日に多くの病む人たちをいやされました。それらは律法学者たちからは治療行為と見られていましたが、あえて挑戦的に安息日に会堂の中で衆人監視の下、病のいやしのみ業を行いました。これらのことが積み重なり、やがてイエスとユダヤ教の指導者たちとの間に大きな溝が生じていくこととなりました。
この安息日規定の根底にあるものは、「時」が神のものであるという信仰です。元々、すべてのものを神の被造物として認め、神の究極的な支配を認めねばなりません。わたしたち人間には、神の造られたものを「管理すること」が委ねられているのです。これは「もの」だけでなく、「とき」も同じです。「時」も神のものであって、わたしたちの生涯という「時の間」を神の御心に従って管理することが委ねられているのです。この「時」が究極的に神の支配のもとにあり、そして具体的に神に従い、神と向き合って生きる「とき」が「安息日」の規定なのです。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)
今回は「第四戒」についてのキリスト教会の理解について記します。今日、ほとんどのキリスト教会では、ユダヤ教の「土曜安息」に代えて、週の初めの日「日曜日」を礼拝の日・安息の日としています。どうしてでしょうか。実はここに、キリスト教会とユダヤ教との大きな相違点があるからです。ユダヤ教では正典を「旧約」だけとし、キリスト教会はそれに「新約」を付加しています。なぜでしょう。
「祭司制」に大きな変更が起こったからです。「安息日」とは単なる休息の時ではなく、神に出会い、神と交わる時で、神の救いの恵みを喜ぶ時です。この神の救いの課題を取り扱うのが「祭司の制度」です。旧約時代の救い(罪の贖い)の制度は人間のレビ族の祭司によって取り扱われ、動物犠牲を献げることによって「赦し」が与えられるというもので、これはやがて到来する救い主を指し示す型、予表でした。
それに対して、新約の時代はレビ系の祭司ではない「メルキデゼクに等しい祭司」であるイエス・キリストの大祭司に変わりました。イエスの出自はレビ族ではなく、ユダ族に属しますが、主なる神ご自身によって「あなたこそ、永遠に祭司である」(ヘブライ書7:21)と宣言されました。旧約時代に行われていた動物犠牲のシステムは、イエス・キリストによる神の救いを示すひな形であり、予表でした。しかし、イエス・キリストが大祭司として十字架においてご自身を罪の贖いの犠牲として献げられたことによって神の救いの計画、「罪の贖い」は完成したのです。
ここから「安息」の意味が大きく変わりました。旧約時代の安息日が指し示していたのは、やがて来る救い主による救済を待ち望むものでした。その待望の神の救済がイエス・キリストの十字架と復活によって完成したのです。キリストを通して、赦しが与えられ、神と和解し、神との永遠の交わりに入るのです。イエスは、十字架で死に、三日目に復活し、多くの弟子たちに現れて「平安があるように」と言われました。これがキリスト教礼拝の原型です。
ここに、キリスト教安息の根拠があります。土曜安息が象り、表していた「真の安息」が、キリストの十字架と復活によって完成されたのです。キリスト教会は、イエスの復活をもって、イエス・キリストを神とし、救い主として信じ、復活後のキリストとの出会いの日を「主の日」と呼び、そこから週の始めの日を礼拝の時としているのです。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)
今回は「第四戒」が持つ今日的な意味を考えてみましょう。安息日が持つ意味は決してユダヤ教、キリスト教の問題にとどまりません。労働者にとって「休息の時」を、どのように獲得するか、ということは今日も大きな課題です。労働と休息についての問題です。しかし、それだけでなく、人が欲望のままに生きることをも断念させる根拠ともなるのです。
「安息」という語は、「止める」、「中断」、「休息」という意味の言葉です。日常の仕事の手を止める、労働の中断が求められているのです。古代では労働者の休息の規定はほとんどありません。日本でも奉公人は「盆暮れ」が唯一の休みの時でした。その中で十戒の安息規定は希有のものでした。「あなたも、息子、娘」という主人家族だけでなく、「男女の奴隷」という使用人から、「寄留する人々」在留外国人たちも含まれ、さらに「家畜」にも休息を与えねばなりません。
働き続けること、儲け続けることに対して、「一端中断すること」、手を止めて休むことが、宗教的強制をもって明確に示されたのです。人間は「もっと、もっと」と欲望に限界がありません。近代資本主義経済下では、労働者をいかに効率的に働かせて、儲けを得るかということが基本になります。そのために、労働者の能力を奪い、時間を奪い、非人間化した労働となります。
聖書は十戒の安息日の規定をもって、このような非人間的な収奪の構造に対して「中断すること」を命じているのです。聖書には「安息年」という土地の休息の規定があります。自分の土地で6年間作物を作り続けたら、7年目は「安息年」として土地を休ませろという規定です。土地から作物を収奪し続けるのではなく、土地を回復させろというのです。
現代は競争社会です。他人が働いている時に、1日完全に休むことは、それだけ儲けが少なくなるでしょう。まして、土地に休息を与えるなどしたら、生活できないと考えてしまいます。しかし、今日の競争社会、資本主義経済が行き詰まっているのは、人間の無限な欲望のままに突き進んできた結果なのではないでしょうか。わたしたちの手の業を、欲望の業を「中断すること」が求められているのです。
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト記20:12)
今回から十戒の後半「第五戒」に入ります。「あなたの父母を敬え」です。日本では、しばしば「君に忠、親に孝」という儒教的倫理と混同されてきたのではないでしょうか。誤解されてきた律法と言っていいでしょう。実は第五戒は決して単純な親孝行を教えるものではありません。
十戒の前半、第一戒から第四戒までは神信仰、神礼拝に関わる規定と言われます。第五戒から後半とされ、対隣人規定とされています。しかも、前半と後半とは分離されることなく、一続きのものとされています。第五戒は、前半部分・神を神として礼拝する規定と後半部分・神を礼拝して隣人と共に生きる生活の指針とを結合する重要な結節点となる戒めなのです。
重要なことは「父母」という言葉にあります。この「父母」とは、血肉の父母だけを指しているわけではありません。ハイデルベルク信仰問答では「わたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々」(104問答)と語るだけでなく、ウェストミンスター小教理では「目上、目下、対等といういろいろな地位と関係にある人々」(62問答)と拡大させています。
どういうことでしょうか。肉親だけでなく、わたしたちを産み、養育し、教育し、保護し、共に支えてくれる社会のすべての人たちが「父母」なのだという理解なのです。「隣人」と言っていいでしょう。日本や東洋の血統主義、家族主義とは異なり、わたしたちが生まれて育てられ、神のみ元に帰る時までに備えられたすべての「人垣」が父母、隣人であるということなのです。
「敬え」という言葉もたいへん重要です。「敬う」と訳された言葉は、元々「重い」、「重く扱う」、「重視する」という言葉です。そこから「栄光」、「名誉」という言葉も生まれ、旧約では王を敬う、祭司を敬う、預言者を敬うということが出てきました。宗教改革者のルターは「父母というものは、地上における神の代表者だ。神の大使だ」と言いました。わたしたちは人間社会の中に生まれました。その社会の第1次集団は家庭です。その家庭の中で、父と母は「神を示す存在だ」ということです。家庭において父母が神を示し、社会全体が神の保護の存在を示すのです。
父母を敬うとは、地上において命を生み出し、神を示す存在を重く取り扱うことです。そして「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ書12:10)。これが第五戒が指し示していることです。
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト記20:12)
今回は十戒の「第五戒」について、極めて今日的な視点からお話しします。第五戒から伸した視線の広がりと言えるでしょう。「あなたの父母を敬え」とは、決して儒教倫理や日本的孝道というものではありません。「日本的家族主義」は、今日、社会的規範としては崩壊しています。第五戒は、これからの新しい社会形成へと導く視座、社会形成の原理となるのではないかと確信しています。
第五戒における「父母」は、「すべてわたしの上に立てられた人々」(ハイデルベルク信仰問答)の総称であり、「目上、目下、対等といういろいろな地位と関係にある人々」(ウェストミンスター小教理)へという拡がりを持つ人々の代表であると言うことです。神が、「わたし」たちを「生きよ」と産み出して、人を保護し、育み、教育訓練して、支え守ってくれる社会全体・社会の総体が「父母」と呼ばれているのです。人は家庭から始まる社会全体の中で生かされている。このことをしっかりつかみ取っていかねばならないのです。
ここから、わたしたちの「敬う」という社会的な責任が生じてくるのです。これは自分の親はその子らが面倒を見るべきだということだけではありません。老人、高齢者たちの保護だけではなく、障がい者や病む人たち、人が人として生きていくことを社会全体で担い合うということです。「敬う」とは「重く取り扱う」ことです。人は、年齢、性別、階層、人種・国籍などによって差別されてはならず、人として重く取り扱われなければなりません。これが「敬う」ことの内実です。
今日、さまざまな生き方が出てきています。生活の在り方が多様化しているのです。少子高齢化、晩婚や単身で生きる人たちが増えています。経済的な理由やその他の理由で子を産まない人たちもいます。母子・父子の家庭も多くなっています。このような時代では、社会全体で取り組むべき課題も多様になっています。高齢者、年老いた人たちだけでなく、社会的なセフティネットから漏れてしまっている人たちもいます。これらの人たちを一人も孤立させることのないように「重く取り扱う」社会的なシステムを構築することが求められているのです。
無関心と憎悪が支配し、互いに奪い合う世界ではなく、人が穏やかに平和に生きていくことの出来る社会。人の尊厳が認められ、自由に生き、互いを認め合って生きる世界を造り出さねばなりません。そのような社会と生き方を産み出すための原動力となるのが「あなたの父母を敬え」という戒めなのです。
殺してはならない。(出エジプト記20:13)
十戒の「第六戒」に入ります。第六戒は多くの課題を内包しています。重要な課題を取り上げて解説していきます。旧約聖書では「殺す」という言葉は幾つかありますが、第六戒で用いられている言葉は「ラーツァ」という語で「粉砕する」、「謀殺する」を意味しています。第六戒で具体的に禁じられているのは、狭義には憎悪や怨念による私的な故意の殺人であり、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」(出エジプト記21:12)と記されていることと同義と言っていいでしょう。
第六戒には、その理由が直接的には語られてはいませんが、人の命の尊さ、尊厳性、神聖性の故です。「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9:6)と記されています。他の被造物の命と比べて、なぜ、人の命が尊いのかということについていろいろな議論がなされていますが、ここに戻る以外に最も根源的な理由は他に見当たらないでしょう。
人の命の尊厳性は、人が「神の形」に造られた、神の形を担うという一点にあります。この故に、人の命を損傷したり、殺害したりすることが禁止されています。さらに、人の命についてのどのような差別をも認められません。「命」そのものに尊厳性があるのです。ここから、人を殺すこと、殺人へのすべての傾きは、人の命の造り手である神の否定、神への反逆と言えることなのです。
しかしまた、ここから旧約特有の「血の復讐」の制度も生まれたのです。「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」(創世記9:5)。古代では、今日のような警察や司法機構などはありません。殺人の罪を犯した者を放置することは神の義に背きます。そこで、殺された者の最も身近な近親者が「血の贖いをする者」(ゴーエール、贖う者)となって復讐することが認められたのです。
旧約の血の復讐の制度は、人の命の尊厳性を保証するために、神自ら殺人を犯した者に立ち向かって「償い」を求めてくださることを意味しています。しかし、この私的な報復は、報復に対する報復を生み、決して本質的な解決とはなりません。むしろ、「報復が許されている」という大義名分が生まれてくる根拠になっています。このような旧約の規定に対して、新約では真逆なイエスの言葉を記すのです。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5:44)。新約によって旧約の規定が乗り越えられているのです。
殺してはならない。(出エジプト記20:13)
十戒の「第六戒」は、実に多くの課題を内包しています。その1つが戦争の問題です。「殺してはならない」と語る旧約聖書自身が、実は大虐殺を命じているのです。この問題を取り上げないでは、第六戒の正しい解説はできません。
旧約聖書ヨシュア記には、モーセの後継者ヨシュアに対して、神が約束の地カナンの取得を命じたことが記されています。その地に住む先住民との戦いが命じられ、「強く、雄々しくあれ」と励まされ、「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(6:21)のです。「滅ぼし尽くす」という言葉が、ヨシュア記では繰り返されます。新改訳では「聖絶」と訳し、この戦いが宗教的な行為とされているのです。
このような戦争理解が旧約のユダヤ人だけでなく、その後のキリスト教会でも継承されました。カトリック教会の十字軍は有名ですが、プロテスタント教会も例外ではありません。宗教改革者のルターもツヴィングリもカルヴァンも限定的な正義の戦争を認めていました。ウェストミンスター信仰告白第23章「国家的為政者について」の2項に「新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともあり得る」と記しているのです。これは古代教父のアウグスチヌスの「正義の戦争」論を受け継いだものです。
このような理解は本当に正しいのか。長い間、真剣には取り上げられてきませんでした。しかし、第2次世界大戦での無差別な都市爆撃、原爆投下、ベトナム戦争の惨禍などを受けて、「正義の戦争」があるか、との根本的な反省が語られるようになりました。一方の正義は、他方から見ると不正義です。どちらも「正義を振りかざしている」に過ぎません。被害は前線の兵士よりも後方の一般市民が絶大です。兵士も深刻な後遺症に悩まされます。国家や民族の独善性がはっきりしてきました。戦争とは利益の追求であり、正義など存在しないと言っていいでしょう。
これらのことから、もう一度「殺してはならない」という基本に立ち帰ることが求められているのが現在です。第六戒は決して個人的な倫理にとどまるものではありません。第六戒の視線の先にあるのは「平和な社会」の構築なのです。神と人との平和(平安)、人と人との平和がもたらされねばなりません。これらの平和が「シャローム」と呼ばれます。主イエスは「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5:9)と言われました。殺人を命じる戦争は明白に「罪」なのです。第六戒は平和な社会の構築を目指す指針なのです。
殺してはならない。(出エジプト記20:13)
十戒の「第六戒」は、もう1つ大きな課題を抱えています。「報復・復讐』の問題です。「殺してはならない」と語る旧約聖書自身が、実は報復を認めているのです。「目には目を、歯には歯を、命には命を」という「同体復讐法」(同害報復)と呼ばれるものです。この旧約と深く関わるイスラム教のコーランでも同様の規定があり、今日もイスラムの世界ではこの規定が現実に力をもって生きているのです。
イスラム社会だけではありません。今日、民主国家と言われるアメリカでも報復は厳然と行われているのです。2011年9月11日、イスラム過激派による同時多発テロが起こると、アメリカはアフガニスタンやイラクを攻撃しました。国家的報復です。ここから今日に至る怨念による複雑な国際社会を生み出してしまいました。また、日本社会は伝統的に報復が認められてきました。昔から「仇討ち」(敵討ち)が推奨され、主君の仇討ちをした赤穂浪士の物語は芝居にまでなり、美化され、「臥薪嘗胆」という言葉が日本人の心の奥底に沈殿しています。
「報復」は、人間の心の奥底に潜む衝動であることは確かでしょう。しかし、衝動のままに生きることは、理性を否定し、殺し合い、滅ぼし尽くすこととなります。日本では近代刑法を取り入れていますが、「死刑制度」を残している珍しい国になっています。欧米諸国ではほとんど死刑を廃止しています。死刑は報復刑です。人間の制度である裁判制度も現実に誤りを犯してきました。処刑してしまってから、過ちが見つかっても取り返しがつきません。日本では死刑廃止の目処がつきませんが、誤判の問題もあり、出来るだけ早く廃止すべきです。恨み、怒り、報復の衝動を、理性によって乗り越えていかねばならないのです。
旧約の同体復讐法は、新約聖書において見事に乗り越えられています。「(あなたは)殺してはならない」という戒めが新約全体を貫いているのです。イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。…あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5:38-44)と言われました。これを受けて、パウロも「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ書12:19)と記します。これが第六戒の真意です。わたしたちは、ここに立つのです。
姦淫してはならない。(出エジプト記20:14)
十戒の「第七戒」の「(あなたは)姦淫してはならない」は、たいへん有名な戒めですが、この戒めの真の意味が受け止められてきたかは疑問です。「姦淫」という出来事だけに関心が集中して、本質的な事柄が脇に置かれてしまうのです。十戒の基本は、神を信じて生きる共同体を形成するためのものです。この戒めの基本は、わたしたち人間の「からだ」における交わりについて教えているのです。
旧約聖書・創世記1章で、人は「神の形」に創造され、「男と女」に創造されました。今日、性にかかわる事柄が隠微なこと、隠し事と思われていますが、聖書では「性」それ自体は決して隠微なこと、あるいは悪しきこととはされていません。人の創造の記事には、人とその社会の基本的な在り方が示されていると言っていいでしょう。人は性的な交わりをもって家庭という社会を形成するのです。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と、性的な交わりが祝福されているのです。
第七戒で「姦淫」とされていることは、一夫一婦の結婚関係の破綻をもたらす事柄です。旧約聖書では、結婚関係以外での性的関係については、「不品行」、「淫行」という別の言葉が用いられ、軽便な処置が記されているのです。例えば「人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない」(出エジプト記22:15)。それに対して、結婚関係にある者の場合、それが「姦淫」と言われて「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ記20:10)と記されています。この場合の「死刑」は石打ちという処刑方法です。
ここから、「姦淫」とは結婚関係の破綻をもたらす事柄であり、その根底にあるものは契約の理解です。聖書では、神とイスラエルの民との関係は契約関係と言っていいでしょう。十戒はその契約内容なのです。同様に、一人の男と一人の女との結婚の関係も契約とされているのです。人格と人格との出会い、人格と人格の結合です。このような夫婦の契約の破れが「姦淫」なのです。そのため、旧約の預言者たちは、神への背信を同様に「姦淫」と呼んでいます。
契約関係というと、冷ややかな関係と思うかもしれません。しかし、最も堅い結合なのです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)。この結合が「家庭」となるのです。社会の誕生です。「姦淫」は、この家庭という社会を崩壊させることなのです。人は互いに愛し合い、信頼し合い、助け合い、交わりとしての家庭・社会を形成していくのです。
姦淫してはならない。(出エジプト記20:14)
十戒の第七戒、「(あなたは)姦淫してはならない」は、実は多くの課題を抱えています。十戒における「姦淫」とは、一夫一婦の契約関係を大前提としています。しかし、実情は第六戒の「殺してはならない」と同様に、旧約では踏みにじられてきた戒めと言っていいでしょう。
先ず、「複数の妻たち」の問題があります。族長と言われる人々、アブラハムには妻サラの他にハガルがいました。ヤコブにはレアとラケルの二人の正妻と二人の女の召使いがいました。ダビデにも妻ミカルの他に多くの妻たちとバテシバがいました。ソロモンはエジプトのファラオの娘を王妃とし、後宮には異邦の女たちも多く集められていました。イスラエルの王たち、ユダヤの王たちも、複数の妻、王妃たちをめとっていました。それぞれ幾らかのニュアンスの違いがありますが、これらのことを見過ごしにしてはならないでしょう。
旧約聖書の記すこれら複数の妻の伝統を踏まえて、イスラム教は四人の妻を許容してきました。これらのことはユダヤ教・イスラム教だけではなく、どの民族も基本的には同じと言っていいでしょう。中国の王宮では「後宮」制度、日本の朝廷では女官の制度、大名には側室制度などがありました。権力と富がある者たちは、その力にものを言わせて多くの女性を自由にしてきたのです。しかし、聖書は決して「多妻」を認めてはいません。旧約における「多妻」の現実は、旧約的な許容なのだと言っていいでしょう。多妻の現実は多くの惨めな争いをもたらしました。
旧約聖書自体は、一夫一婦の人格的な結合による家庭の形成を指向しているのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」(創世記2:18)。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)。これが旧約における原則なのです。
新約において、結婚の奥義が明確に啓示されたのです。夫と妻の関係がキリストと教会の関係になぞらえられて語られました。「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(エフェソ書5:31-33)。
姦淫してはならない。(出エジプト記20:14)
「第七戒」「(あなたは)姦淫してはならない」も、多くの課題を抱えています。実情は第六戒の「殺してはならない」と同様、ユダヤ社会では踏みにじられ、軽んじられてきた戒めと言っていいでしょう。さらに今日では最早、社会的な規範としての力を失っているのが実際ではないでしょうか。
結婚があれば、当然「離婚」もあります。結婚は神の定めた制度ではありますが、現実は多くの問題を抱えて生きる人間同士の営みです。欠け多き人間同士の結婚には離婚が認められないと、家庭が牢獄になりかねません。カトリック教会のように離婚を認めないと、形式だけの夫婦となることもあります。とは言え、日本の近年の離婚率は35%を超えていると言われます。三組に1組の割合です。
旧約聖書でも、実は離婚を認めています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。問題は、(1)男性中心であることと、(2)何が「恥ずべきこと」なのか、ということです。男性にとって離縁状1枚で簡単に離婚ができたのです。
聖書における「男性中心」の記述は改まってはいません。女性からの離婚申し立ては一切語られません。旧約の限界性を理解して、聖書の示す両性の平等の基本理解に立ち戻って理解し、解釈し直すことが大切です。「恥ずべきこと」を巡っては、ユダヤ教の内部でも論争がありました。極論すれば、夫にとって嫌なこと、目障りなこと、何でも理由になったと言っていいでしょう。
このような手軽な離婚の実情に対して、イエスは「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる」(マタイ福音書5:31-32)と言われ、さらに、ファリサイ派の人たちが離婚が律法に適っているかどうかとの問いに対して、「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ福音書19:5)と言われました。
イエスは、離婚の現実を認めると共に、離婚を避けることを勧め、さらに結婚における夫婦の「神が合わせた」一体性を示して、家庭形成の重要性を求めたのです。
盗んではならない。(出エジプト記20:15)
「第八戒」、「(あなたは)盗んではならない」に進みます。第八戒は、共同体の中で「互いの所有物を大切にすること」の規定であると言えます。この「盗み」は、今日の国家が刑法などで規定するスリ、窃盗、強盗、詐欺などの社会的犯罪の禁止というだけにとどまりません。「盗んではならない」という戒めは、社会的犯罪の規制というだけのものではなく、先ずなによりも徹底的に神との関係において理解されるべき事柄なのです。
盗みの問題は、人と人との問題であるよりも、先ず神と人との関わりにあります。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの」(詩編24:1)という事実を信仰をもって受け止めるところに、この戒めの根拠があります。神が、天地のすべてを創造し、世界は神のもの、ということです。世界は神の創造になり、神がまことの所有者であることを認めることが、この戒めの基盤なのです。
そして神は、神の造られたものの管理を人間に委ねてくださいました。それが「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2:15)ことの意味なのです。人は本来、神の造られた世界の「管理者」と言っていいでしょう。主イエスは、マタイ福音書25章14-30節で「タラントンの例え」を語られました。それぞれの人の能力に応じて「管理すべき財」が与えられているという例えです。
管理者である人は、委ねられた財を忠実に管理し、生かして用い、自らが生きるためと共に、神と隣人のために正しく用いることが求められているのです。この神から委ねられていることを認めない、財・富の絶対的な所有、完全な意味での私的所有の主張は、神の究極的な主権・所有権を認めない「霊的な盗み」なのです。国家や社会から、どれほど合法とされても、神からは「盗み」となるのです。
盗みの対象である「財・富」も決して、いわゆる「もの・財産・資産、お金など」だけではありません。わたしたちの人生も、賜物・才能も、財産・資産も、地位や境遇も含められています。そのため、「盗んではならない」とは、隣人の財物を盗む行為だけではなく、自分に託されている才能や賜物を神と隣人のために用いずに、ただ自分のためにだけ用いることも「盗み」となるのです。
旧約の中に「嗣業」という言葉が出てきます。本来は「賜物」を意味し、資産、相続財産、相続地を指しています。この嗣業、賜物を用いて、自らが生きると共に、互いの賜物を認めて、隣人と共に、神に仕えて生きる共同体を形成するのです。
盗んではならない。(出エジプト記20:15)
「第八戒」「(あなたは)盗んではならない」は、共同体の中で「互いの所有物を大切にすること」の規定であると記しました。この「盗んではならない」という戒めは、窃盗、強盗などの社会的犯罪を禁止するだけのものではありません。むしろ、神の管理者としての人が託されている賜物、資産などを用いて積極的に世界と社会とを向上させていくことが求められているのです。
マタイ福音書25章14-30節で、イエスは、タラントンの例えを語られました。主人は長期の旅に出るにあたって僕たちにタラントンという巨額な財産の管理を委ねて出かけます。ある僕には5タラントン、ある僕には2タラントン、ある僕には1タラントンと、管理運用を預託したのです。「タラントン」は貨幣ではなく、計算上の単位で、1タラントンは今日で数千万円に該当すると言われます。「わたしは1タラントンしかない」と言っても、十分に商売が出来る金額です。
主人が長期の旅を終えて帰ってきた時、僕たちは委託された財産の管理報告をします。5タラントン預かった僕はさらに5タラントンを差し出しました。2タラントンを預かった僕もさらに2タラントンを差し出しました。預かった資産を活用運用して倍にしていたのです。しかし、1タラントンを預かった僕は預かった1タラントンだけを差し出して「地の中に埋めていた」と語ります。
主人は、5タラントンの僕、2タラントンの僕には「忠実な良い僕だ。よくやった」と褒めましたが、1タラントンのままの僕には「怠け者の悪い僕だ」と言われました。1タラントンの僕は決して減らしたわけでも失ったわけでもありません。資産運用したら、失うかもしれません。減らすかもしれません。しかし、主人はタラントンを用いることを求めているのです。用いるためのタラントンの委託なのです。土中に埋めることは、不作為であり、一種の盗みなのです。
この「タラントン」は、やがてタレントという言葉にもなります。才能・賜物です。神はすべての人に、それぞれ固有の賜物・才能を与えてくださいました。個々の有能な才能だけでなく、実は人のいのち、人生、生涯も託された賜物なのです。わたしたちはそれぞれ固有の賜物を持って生まれてきます。その固有の賜物を用い、活用して、この社会の中で、生き、生かされていくのです。一人ひとりに託された人生があります。その人生を生き抜くことが賜物を用いることです。賜物・タラントンの多様性を認めて、それを積極的に神と隣人のために生かし用いることが、「盗んではならない」という戒めにおいて求められていることなのです。
盗んではならない。(出エジプト記20:15)
「第八戒」「盗んではならない」は、「互いの所有物を大切にすること」の規定であると記しました。この「盗み」ということを、決して個人的な窃盗、強盗の類いにとどめて理解してはならないのです。社会形成の原理なのです。
この盗みとの関連で、旧約の中に顔を出す戒めがあります。「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である」(レビ記19:35-36)。社会生活の中で、商取引などで公平・公正でなければならないということです。相手の無知や弱い立場につけ込んで、不正な計量をしたり、すばしこく立ち回って不当な利得を得ることも「盗み」であるされているのです。
この戒めは、第八戒の「盗み」を考える時の大切な視点です。社会の発展に伴い、富む者は時の権力者などと結託し、大がかりな構造的収奪へと進んでいきます。その結果、社会は貧富の差が増大していきます。個人的な窃盗や強盗などは、だれでも悪事と判定できますが、構造的収奪はなかなか「盗み」とは認められません。
近世初期に生きた宗教改革者カルヴァンは、すでに「法の装いの元に奪い取ること、へつらい、あるいは贈与という口実で隣人の財産や金銭を自分のものとする一切のたくらみが盗みである。隣人愛の真剣さからそれて、いつわろうとしたり、何らかの損害を与えようとすることが、盗みである」と、複雑な社会構造の中での収奪も「盗みなのだ」と、十戒講解の中で記しています。
今日の「盗み」の問題は法を犯す盗みの問題よりも、「法の装いの元に、法に守られて犯される合法的な盗み」の問題なのです。知恵ある者たち、権力ある者たち、財力ある者たちが結託して、自分たちに有利な法律を作り、法律に守られて、弱い隣人の資産や土地、金銭や労力などを自分のものとする収奪、構造的盗みが横行していることです。
この世の司法の場においては合法とされることであっても、「隣人愛の真剣さ」からそれ、外れるような収奪は、神の前では「盗み」であることを、しっかりと覚えることです。資本主義経済が行われる中で、自由主義経済の行き着くところで、隣人愛が見失われると、「神の前での盗み」となることを理解しなければならないのです。健全な社会の形成のためには「自由」、「平等」、「友愛」の3つの指針が3つ共に力を持つことが必要・不可欠なのです。経済的な「自由」主義だけが突出してはならないのです。神の愛と神の主権が認められる社会の形成を祈り願うものです。
隣人に関して偽証してはならない。(出エジプト記20:16)
「第九戒」「隣人に関して偽証してはならない」は、新改訳2017では「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と訳しています。この第九戒は、単純な意味での嘘や虚偽、虚言の一般的な禁止というものではありません。「偽りの証言」という言葉で分かるように法廷の場面が予想されています。
古代イスラエルでは非常に古くから特有の裁判制度がありました。群れの長老が裁判官となり、イスラエルの成人男子であればだれでも証言者となり、2名以上の同一の証言があると「有罪」と認められました。この法廷によって共同体の秩序が維持されていたわけです。古代の裁判においては、今日のような訓練された専門的な裁判官や弁護士もいません。「物証」などもありません。証言が唯一の証拠です。この証言がゆがめられたり、虚偽が語られたら、たいへんなことになります。
裁判は、刑事的な事件だけでなく、商売上の争い、財産を巡る争いや家族間の紛争などの民事的な裁判もあります。これらが日常的に「町の広場」で行われました。そこでは当然、いろいろな力関係が左右します。どこの世界でも、いつの時代でも、富や権力、身分、階層、性別、さらには民族の違いなどによって同情や忖度が起こり、取り扱いが左右されるようなことも起こります。
このような裁判法廷における最も基本となる戒めが、第九戒「隣人に関して、偽証してはならない」です。この戒めを基盤として、旧約では裁判に関わる多くの注意事項が記されているのです。「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」(出エジプト記23:1-3)。
「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(出エジプト記23:6-9)。
このように厳重に注意されていても、実際には権力者、資産家などが特権を行使し、時にはイエスを十字架に追いやった「時の勢い」「民衆の声」も、大いに力を振るったのです。
隣人に関して偽証してはならない。(出エジプト記20:16)
「第九戒」「隣人に関して偽証してはならない」は、嘘や虚偽、虚言の禁止というだけの事柄ではありません。共同体の中で、秩序が維持されると共に、人が人として生きる尊厳性に関わる戒めなのです。
第九戒は、古くから教会の教理問答などでは、自分と隣人の栄誉、名誉に関わる戒めとして理解されてきました。「わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進すること」(ハイデルベルク信仰問答112問答)。「私たち自身と隣人の名声とを、保ち高めること」(ウェストミンスター小教理問答第77問答)。今日の社会では、この視点が大切になっているのです。
今日、マスコミ、週刊誌、SNS等によって、ちょっとした出来事、事件、うわさ話などが一気に拡散されて迷惑を被る人たちがたくさん出てきています。いろいろな事件の加害者とその家族だけでなく、被害者であってもプライバシーが侵害されています。多くの店舗や街角など至るところに常時撮影されるカメラが設置されて、個人のプライバシーはないに等しくなっています。
さらに、自民族中心的な主張、優生学的な視点に立つ排除思想、ナショナリズムと効率主義などによって、人が選別され、貶められ、差別され、蹴落とされています。人が人としての尊厳と名誉とを持って生きることが困難な社会になっています。人種や性別、いろいろな病、高齢、障害などの弱さを持つ人たちも、人としての尊厳と名誉をもって生きる社会を築いていかねばならないのです。
第九戒「隣人に関して偽証してはならない」は、このような今日の社会状況の中で受け止められねばならない重要な戒めなのです。1つは、偽証の反対の「真実」が生かされることです。今日、宣伝や権力などによって「真実」が相対化しています。何が真実なのか、すぐには分からない状態です。しかし、「真実」は大切にしっかりと守られ求められていかねばならないのです。真実によって、偽りに満ちたこの社会が裁かれ、規制されねばならないからです。
2つは、この戒めによって、一人ひとりの人が、人としての人権が守られ、その名誉と尊厳性とが確保されることです。人の名誉や尊厳性と、この戒めとどう関わるのか「分からない」という方もおられます。実は、裁判法廷において求められる大事なことは、被告の場合でも原告の場合でも、人権と名誉の回復なのです。失われた財産などの回復だけでなく、失われていた人権と名誉が、真実の力によって回復される。これが、この戒めが求めていることなのです。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト記20:17)
最後の「第十戒」に入ります。この戒めは「隣人の家」に関わります。「家」は、建造物としての家ではなく、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど」という財産を含めた「家の資産一切」ということです。ここでは「隣人の妻」も資産の中に入っています。「男女の奴隷」も資産です。今日の男女平等、奴隷制廃止などの視点から言えば、はなはだ問題ある文章です。これは、十戒が語られた時代の社会的環境を踏まえたものだからです。時代と社会は常に変化し進化していきます。三千年以上昔の古代文書として受け止め、批判的に読まねばならない個所の1つです。
この戒めの課題は「欲してはならない」ということです。以前の口語訳では「むさぼってはならない」と訳されています。隣人の資産を「欲し、むさぼる」ことは、直ちに盗みにつながります。では、第八戒「盗んではならない」とは、どのような違いがあるのでしょうか。
第十戒は、つい手を出して盗み奪ってしまう行為手前の人の心の動きの問題なのです。イエスは、十戒の理解において具体的な罪の背後にある内なる心の動きに鋭く目を注いでいます。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ福音書5:27-28)。
このような人の内面の動きを問うことは、姦淫だけでなく、殺すな、盗むな、なども同様です。第十戒「隣人の家を欲してはならない」は、十戒の後半部分・対隣人規定のすべてに関わり、それらの規定の具体的な罪の行為に入る前の心の状態、内面の動きについても、「神の目」が注がれていることを告知する規定であると言えるでしょう。この点が、神の法としての「十戒」と、この世の法とが決定的に異なるところです。この世の法は、犯罪を完成する以前の未遂罪は問います。あるいは「準備行為」を問うことはします。しかしまだ、人の心の奥深くに秘められたままである「想い」、「願望」を罪に問うことは出来ません。
しかし、神は人の心の奥深くをご覧になるのです。使徒パウロは「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」(ローマ書7:7-8)と記します。「欲するな」「むさぼるな」の規定が、内なる想いをも「罪」として指摘するのです。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト記20:17)
「第十戒」の続けての解説です。この戒め「隣人の家を欲してはならない」の規定で最も大切な言葉は「隣人の」です。十戒解説は多くなされていますが、「隣人の」という言葉に着目したものは案外少ないのです。十戒全体を締めくくる最後の「第十戒」は、「隣人」という言葉が明確に重く語られているのです。
十戒の前半、第一戒から第四戒までは、「神を愛すること」、神を神として礼拝することが求められています。神を信じて生きることは、神を神として礼拝して生きることです。造り主であり、救い主である神を愛し、神との交わりによって、人は人として生きることが出来るのだということです。
十戒の後半、第五戒から第十戒までは、自分を愛するように隣人を愛することが求められているのです。人間は一人では生きられません。隣人と共に社会の中で生きるのです。最初から、人は「助け手」としてのパートナー、隣人関係・共同体の中に置かれています。「隣人の家を欲してはならない」とは、隣人の所有とその権利を正当に認めて、共同体の中で隣人と共に生きなさいという勧めであり、命令なのです。
米国のトランプ大統領は「アメリカ・ファースト」を叫んでいます。自分中心主義で、今日どんどん広がっている考え方です。隣人と共に生きるのではなく、自分の権利の主張だけです。しかし、十戒は、自分の権利の主張と共に、むしろ自分の権利主張の前に、隣人の権利を擁護するのだと語っているのです。これが聖書の主張です。自分の権利だけを無限大に主張して「共同体を形成する」ことは出来ません。隣人の権利が本当に守られるところで、自分の権利も守られていくのです。
ウェストミンスター小教理問答では、問80で「第十戒では、何が求められていますか」と問い、「第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです」と答えています。隣人のすべての所有物、隣人の権利に対して「正しい愛の気持ちを持ち」、その権利を正しく擁護することです。これが「隣人の家を欲してはならない」ということなのです。
今日の社会は、この十戒の規定から大きくズレてしまっています。スキあらば、隣人の所有を自分のものにしようと狙い、隣人の基本的人権に配慮しません。人が神から離れてしまっているからです。神を神とすることなしに、自分の権利も、隣人の権利も、守ることは出来ないのです。これに気づくところから始まります。
「十戒」の解説は、今回で終了とします。終了にあたり、幾らかの思いを記すこととします。わたしは牧師になってから教会で何回も「十戒講解」をしてきました。これが、神を信じて生きる者の目指すべき道、歩むべき道と考えているからです。今回の講解では、「現代の課題」に視点を置いて記してみました。
実は、わたしは「十戒」講解をしながらも、いつも無力感に襲われてきました。十戒がいつの時代にも無視され、軽視され続けているからです。今に始まったことではありません。モーセによって告知された直後から十戒は無視されてきました。アロンによって「金の子牛」が鋳造され、バアル・アシュトレトの土着神との混淆、背信がイスラエルの民を覆います。イスラエルの歴史は戦いに継ぐ戦いが日常でした。力ある者の強奪は目を覆うばかりです。
キリスト教の時代になってもほとんど変わりません。イエスによって「十戒」の精神が明確に示されているにもかかわらず、教会と信徒は十戒とかけ離れた歩みをしてきたのです。コンスタンティノス帝による国教化によって、信仰の教理は精密化に走りますが、十戒の指し示す道からは遠くなり、十字軍への道、富国強兵への道を歩み続けてきたのです。この世の力がすべてという世俗化の道です。
今日も、キリスト教の世界だけでなく、世界全体が世俗化の道を歩み続けています。「十戒」など屁とも思わないで弱肉強食の道を突き進んでいます。神など認めず、力の強い者が勝ち、自己中心となり、格差が広がり、人を人とも想わない新たな奴隷化が進んでいます。もう「十戒」などの出番はないのでしょうか。
実は、わたしは今こそ、「十戒」の出番だと思っているのです。世界が狭くなりました。一国だけでは経済も成り立たなくなり、相互に国際的な協力体制を築かねばならなくなりました。戦争は出来にくくなりました。世界の資源も底が見えてきました。このままでは人類が生存していくことが出来ないことが分かりはじめました。弱者やマイノリティの人たちが声を挙げはじめました。まだまだ小さな弱い声ですが、今までの人間の歩みに対する反省の声が出てきたのです。このような新しい状況こそが「十戒」が有効化される時なのだと言っていいでしょう。
ある意味で、十戒は社会形成に批判的に関わってきたと言っていいでしょう。この世界には何の規範もないのではありません。良心律として「駄目なものは駄目だ」という根本的な規範が必要なのです。水平的な視線からではなく、神からの・上からのものでなければならないのです。「十戒」は、その意味で、いつの時代でも、規範であり続けてきたのです。人の歩みと共同体を規制する永久に変わらない規範なのです。終わりまでお読みくださり、ありがとうございました。