1、祈りは、だれでも出来ます

 「祈り」についてのページを新しく設けました。これからしばらく、このページで「祈り、祈ること」について記してまいります。多くの人は、キリスト教を知るための最も大切なことは「聖書と教理」を学ぶことだと考えています。確かに、キリスト教信仰を知り、理解するための近道は「聖書と教理」を学ぶことであるかもしれません。しかし、それはキリスト教信仰の大まかな骨格を知るだけのことだと、言っていいでしょう。

 どうか、「祈ること」を学び、祈りを実践してみてください。祈りすることは、呼吸することに例えられます。祈りをすることは、知的な理解にとどまらず、心臓の鼓動が始まることなのです。このページの名称を「祈りの水路」としました。川筋のことを考えてみてください。大きな大きな川も、その上流をたどっていくと、山奥の地下から湧き出るわずかの水滴から、山奥の湿地帯から流れ出すわずかの流れから始まり、いくつかの流れを包んで、やがて大河となります。かすかな祈りの鼓動が重なって、しだいに命の脈動となるのです。一言の祈りの言葉が、あなたを、生きた信仰者として活かしていくのです。

 「わたしは、まだキリスト教の信仰を持っていません。祈ることは出来ないのでは…」と考える方がおられます。決してそうではありません。祈りは、だれでも出来ます。わたしはある方が「祈りはキリスト者だけのものだ」と強烈に主張したことに手を焼いた経験があります。神を知って、神の御心に従って祈ることが、正当であると言うことも出来ましょう。しかし、不思議なことに、神はだれであっても真剣に求める者の祈りの声を聴いてくださるお方なのです。「お前は未信者だからだめだ」などとは決して言われません。クリスチャンであるか、否かではなく、神は祈る者の心を見てくださり、祈りに聴いてくださるのです。

     「 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

       わたしの助けはどこから来るのか。

       わたしの助けは来る

       天地を造られた主のもとから。 」(詩編121:1)

 

 祈ることとは、神に、素直に、素朴に「助けを求めること」と言っていいでしょう。だいぶ以前のことになりますが、あるクリスチャンの祈りを聴いて、あきれることがありました。その方は、祈りの中で、神さまに神理解の真髄を説明しているのではないかと、いぶかるような「立派な祈り」を捧げていました。こういう「立派な祈り」が多くの人に誤解を与えてしまっているのではないかと考えています。神さまに向かって三位一体についての神学講演などをする必要はまったくありません。「立派な祈り」は、本当の祈りではないのです。

 わたしたちは、貧しく、弱く、不安な存在です。生きることに悩み、老いる苦しみに耐え、病み痛む者です。そして死に直面しなければなりません。その一つひとつの苦悩の中で、助けを求めて祈るのです。あなたも、一緒に祈ってみませんか。

 「神さま 今、わたしは悩んでいます。解決の道が見つかりません。神さまに叫び求める以外、道がありません。わたしを助けてください。救い出してください。」

2、祈りについての誤解いろいろ

 だいぶ、以前のことです。わたしが牧師として、ある方を訪問し、辞去する前に「ひと言、お祈りさせてください」と言いました。すると、その家の方々の顔が一瞬こわばりました。本当に短くひと言の祈りをした後に見渡すと、その家の人たちの顔色は安堵の色に変わっていました。後で聞くと、仏教の加持祈祷、法事の時の僧侶の長い読経を思い浮かべたようです。

 わたしの祖父は日蓮宗の熱心な信徒でした。毎朝、祖父がお経を唱え終わらないと、家族は食事が出来ませんでした。15分以上かかる読経の時間が終わるやいなや、みな大急ぎで食事を掻っ込み、職場や学校に走ったことを思い出しています。

 日本では「祈り」と言うと、このような加持祈祷、長い読経を「祈り」と考えてしまうのではないでしょうか。それとも、神社仏閣で、お賽銭を上げて、「ナムナム」と数秒、家内安全、商売繁盛などを願うことと、考えてしまうのではないでしょうか。決まり切ったお題目を唱えたりお念仏を唱えることが「祈ること」とされ、一人ひとりの自由な自分の言葉による「心からの祈り」について知らないできたと言っていいかもしれません。

 このような祈りについての誤解は、主イエスの時代のユダヤ人社会の中にもありました。ユダヤでは日に5回、定時の祈りが定められていました。その中で、午後3時の祈りです。人々が町を行き交う時間です。ファリサイ派と言われる人たちは、わざわざ町の大通りや辻に出かけていって、定時の祈りを大きな声で朗々と道行く人に聞こえるように捧げました。「なんと、あの人は敬虔な人だ。すばらしい祈りをしている」と、人に見せるためのものでした。

 主イエスはこのような祈りに対して「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ福音書6:5)と、偽善の祈りだと厳しく批判しました。

 また日本では、「百万遍念仏」、「お百度参り」のような熱心な激しい祈りが勧められてきたのではないでしょうか。「一心、岩をも通す」という言葉がありますが、祈る人の激しさ、熱意が聞かれるのだということでしょう。激しい祈りや熱烈な祈りの姿勢を見せられると、「とても、わたしには…」とすくんでしまうのではないでしょうか。激しい祈りの姿勢は、日本だけでなく、ユダヤ社会の中にもありました。主イエスは、このような祈りのあり方にも「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタイ福音書6:7)と批判しました。

    「    わたしは魂を沈黙させます。

      わたしの魂を、幼子のように

      母の胸にいる幼子のようにします。 」(詩編131:2)

 

 これが、祈りのあり方ではないでしょうか。ご一緒に祈ってみましょう。

 「神さま、母の胸に抱かれた幼子のように、あなたに心を寄せ、あなたに信頼して、わたしの想いをあなたに向けさせてください。」

3、祈りはご利益を得る道か ?

 キリスト者と言われる人たちの中に少し奇妙な人たちがいます。むしろ、わたしの方が奇妙なのかもしれませんが、あえて記すこととします。

 「キリスト教の信仰は、何の御利益ももたらさないから、いいのだ」と言い、「祈りも御利益を求めるようなものは本当の祈りではない」とおっしゃる方が、わりあい多くおられるのです。「キリスト教は御利益宗教ではない」ということを強調したいようです。

 確かに日本の多くの宗教は、神道であれ仏教であれ、「御利益」を売り物にしています。商売繁盛、家内安全はもとより、良縁、安産、受験合格、交通安全、子育て、何でもかんでも神社仏閣の御利益として売り出しています。元々、仏教は「鎮護国家」という御利益の主張で日本に定着した、と言っていいでしょう。キリスト教の信仰は、こういうものとは違いますよ、と言うことでしたら、わたしも大賛成です。

 では、キリストを信じても何のご利益もないのでしょうか。具体的な「あれ、これの願い事を、祈り求めてはならないのでしょうか」。決してそうではありません。主イエスは多くの病人の求めを聞いていやされました。主イエスはある盲人と出会い、「何をしてほしいのか」と尋ね、盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えます。すると、主イエスは「見えるようになれ」(ルカ福音書18:41-42)と言い、目を開けてくださいました。

 主イエスは、こう言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ福音書6:7-8)と。

 キリスト教では、真剣に祈り、願い、求める者の訴えが聴かれ、応えられて、心も体も健やかにされて、豊かな祝福が与えられることが約束されているのです。決して「何の御利益もない」ような信仰ではありません。祈りは霊的な事柄だけでなく、わたしたちの生活の必要のあれこれを、何でも祈り求めて良いのです。「こんなことを祈っていいのかしら…」などと悩む必要はまったくありません。とりあえず、何でも祈り求めてください。

     「 しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け

       聞き入れてくださいました。

       神をたたえよ。

       神はわたしの祈りを退けることなく

       慈しみを拒まれませんでした。  」(詩編66:19-20)

 

 神は、苦しみの中にある者の叫び、祈りの声に、しっかりと耳を傾けておられます。人は苦しみの渦中にあるとき、「これは、御心に適うことなのか、どうか」などと考える余裕はありません。「主よ、助けてください」と、叫び求める者の声を決して拒むことはありません。直面する困難な課題を率直に祈り求めてみましょう。ご一緒に祈りませんか。

 「神さま、苦しみの中で、わたしは口を開き、あなたに助けを求めます。あなただけが、わたしの助け主です。わたしを苦しみの中から解放し、必要なものを与えてください。」

4、祈りの作法は ?

 「祈り」と言うと、すぐに「祈りの作法」を考える人たちがいます。神に祈るのだから、一定の時をとって、居ずまいを正し、きちんと整った言葉で、「祈る」ものだと理解する人たちがいます。わたしもこの考え方を全面的に否定するものではありません。一定の時をとって、姿勢を正して、整った言葉で、神に祈ることが出来る方は幸いな方です。しかし、このような理解を人に押しつけることは決してあってはなりません。これは余裕のある場合の祈りです。

 祈りには基本的に作法などと言えるものはありません。旧約聖書に「ヨナ書」という預言書があります。ヨナは、預言者としての神からの召しを拒否して逃亡します。神はヨナを追跡し、ヨナは荒れ狂う海の中に投げ込まれ、巨大な魚に飲み込まれます。「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげ」(ヨナ書2:2)るのです。命の危機です。お行儀良く座り直し、整えられた言葉で落ち着いて…などと言っている余裕はありません。陰府の底からの叫びです。しかし、このヨナの叫びが「主に祈りをささげ」と受け止められているのです。

 病床で「神さま、助けてください」と、つぶやくことも祈りです。台所で生活の苦しさを訴えるのも祈りです。子どもを叱ってしまった後、「しまった」と思って悔い改めるのも祈りです。庭いじりをしながら子ども賛美歌を歌うのも祈りです。神は、いつでも、どこでも、わたしたちの傍らにいてくださいます。神は、24時間、365日、わたしたちに目をとめて、わたしたちの嘆き、つぶやき、訴えに、耳を傾けていてくださいます。

 ゆっくりと時間を取って、聖書を読みながら、神の言葉を瞑想する。これもすばらしい祈りの時です。夜、寝る前に、一日の出来事を振り返り、悔い改めの時を持つことも祈りです。キリスト教では、個人の祈りには、定時や定型などの決まりは本来ありません。しかし、一人ひとり自分の信仰生活として、それぞれの「祈りの時」、「祈りのあり方」を確立することも必要です。誰かに強制されたものとしてではなく、自分の信仰生活の道筋として整えることが必要です。祈りの水路・道筋を自ら整えていくのです。

     「 苦難の中で、わたしが叫ぶと

       主は答えてくださった。

       陰府の底から、助けを求めると

       わたしの声を聞いてくださった。 」(ヨナ書2:3)

 

 わたしは「お茶」が好きです。お茶には「茶道」という形、作法があります。日本では何でも「道」にしてしまいます。武道、華道、書道、などなどです。祈りにも作法を設けて「道」にしてしまいかねません。これは危険な方向です。祈ることは、習い事や修道ではありません。たしかに祈りは「ある形」を取ることが多いですし、形によって保たれていく側面があります。しかし、元々、祈りは「いのちの営み」です。信仰生活の呼吸なのです。信仰者として生きる証しです。信仰のいのちの営みとして、「神さま」と呼びかけてみましょう。

 「神さま。わたしは、どのように祈ったら良いのか分かりません。陰府の底からの叫びのようなわたしの求めを聴いてください。」

5、祈りの道筋、祈りの手本

 今までに、祈りはだれでも出来ます、何でも自由に祈っていいのです、と記してきました。しかし、それですぐに、だれでも自由に自分の言葉で、祈ることが出来るでしょうか。なかなか実際には出来ないのではないでしょうか。

 わたしは、牧師として求道中の方に「信仰入門」の手ほどきをするとき、祈りについても手ほどきをしました。「わたしの後について、わたしの言うように、言葉を出してください」と。そして、短い祈りの言葉を口に出します。「父なる神さま」とわたしが言うと、続いて求道者が「父なる神さま」と声に出して祈ってもらいます。一言一言、続けてもらいます。何回か、このようなことを続けると、しだいに自分の言葉で祈りが出来るようになっていくのです。

 祈りは、だれでも自由に自分の言葉で祈って良いのです。しかし、わたしたちにとって、どのような言葉で、どのように祈ったら良いのか、具体的に分からない、というのが実際ではないでしょうか。イエスの弟子たちも同様でした。弟子たちは、「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ福音書11:1)と願ったのです。ユダヤ人としての伝統的な祈りの言葉を知らなかったのではありません。しかし、主イエスのなさっていたような自由な祈りの世界への道が分からなかったのです。そこで、主イエスは弟子たちの求めに応えて、「こう祈りなさい」と言って、祈りの言葉、祈りの道筋、祈りの手本をお示しくださいました。それが、今日「主の祈り」と言われているものです。次に記しましょう。

  「  天にましますわれらの父よ。

     ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。

     み国を来らせたまえ。

     みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

     われらの日用の糧を今日も与えたまえ。

     われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。

     われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

     国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン  」

 

 これは、マタイ福音書6章9-13節に記されているものです。一番最後の「国とちからと栄えとは…」は、後に教会の礼拝式の中で「頌栄」として付加されたものです。また、口語ではなく文語訳です。現在もなお、多くの教会で用いられているため、そのまま記しました。

 これが、わたしたちの祈りのお手本です。書道、習字を習うとき、最初から自由奔放に書くのではなく、まず先生の書を下敷きにして、その上に重ねて書いていきます。それによって、「書」というものの基本を学ぶのです。入る、止める、跳ねる、…一つひとつ呼吸があります。それと同じです。あなたも、この「主の祈り」を、先ずは暗記するくらいに唱えてみてください。繰り返し唱えると、自然と身につきます。いつでも、どこでも、思い出して口に出してみてください。

 「神さま。主イエスが教えてくださった『主の祈り』を、わたしにも唱えさせてください。この主の祈りを、わたしの祈りとさせてください。」

6、神の子らの祈り

 祈ることは、キリスト教信仰だけではなく、ほとんどの宗教に存在します。祈りのない宗教はないでしょう。朝早く散歩で近所の神社仏閣に行くと、熱心にぬかずいて祈っている婦人の姿を見かけることもあります。その方々の多くは、おそらくその神社が祀る神名やお寺の本尊の名を承知しているわけではないでしょう。「なにごとのおわしますかは知らねども…」、人の心の中には、祈らずにはおれない宗教心が備わっているのです。

 しかし、「主の祈り」は、このような祈る相手の分からない・知らない神への祈りではありません。また神を見失った者の祈りでもなく、父なる神を知ることの出来た「神の子らの祈り」であることです。これが、キリスト教信仰の祈りの特色と言えるでしょう。

 勿論、わたしたち人間は最初から神の子らなどではありません。むしろ、生まれながら「怒りの子」であり、神に反逆する生き方をしてきているのです。ただ、神の憐れみにより信仰が与えられ、キリストの贖いによって神の子らとさせていただいたのです。

 新約聖書・ルカ福音書15章に「家出した弟息子の例え」が記されています。ぜひ、読んでみてください。父に反逆していた弟息子が、どん底の生活の中で、自分を愛する父のいることを悟って、父のところに帰っていきます。父はまだ遠くにいる彼を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻します。その父の腕の中で、弟息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と告白したのです。

 「主の祈り」もまったく同じ構造です。神の恵みによって、イエス・キリストを信ずる信仰が与えられてキリストと結ばれました。キリストに結ばれて、「イエス・キリストの父なる神」が「わたしの父」となってくださったのです。だれも最初から、キリストの父なる神を知っているわけではありません。聖書を読んで、イエス・キリストを知り、その十字架の贖いの恵みを悟って、キリストを信じる信仰に導かれます。その中で、キリストをお与えくださった神を、「父なる神よ」と祈ることが出来るようになっていくのです。

 信じて祈る、と言っていいでしょう。実際は、祈りそのものが信仰の現れなのです。「キリストを見上げさせてください」、「キリストを信じさせてください」、と祈ることが信仰なのです。福音書を読みながら、「キリストを知りたい」、「キリストを見せてください」と、お祈りください。それが信仰の祈りなのです。

  「  あなたを呼び求めます。

     神よ、わたしに答えてください。

     わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。 」(詩編17:6)

 

 キリスト教信仰の祈りは、何ものか知らない神への不確かな祈りではなく、キリストによってわたしたちを救い出してくださった父なる神への子としての祈りです。そのゆえに、わたしたちの願い求めることは、必ず聞かれるのです。ご一緒に祈りましょう。

 「父なる神さま。わたしもキリストを見上げる者とさせてください。イエス・キリストを知る者とさせてください。」

7、神を「父」と呼ぶ

 明治から大正にかけて生きたクリスチャンの詩人に八木重吉という人がいました。この八木重吉の詩に、こんな短い詩があります。ご紹介しましょう。

 「 てんにいます/  おんちちうえをよびて/ おんちちうえさま/ おんちちうえさまととなえまつる/ いずるいきによび/ いりきたるいきによびたてまつる/ われはみなをよぶばかりのものにてあり  」

 

 少し古い言葉が使われていますが、全文ひらがなで、十分に意味は分かると思います。八木重吉は、当時の死の病と言われていた肺病を病んで、30歳の若さでなくなります。その晩年に詠んだ詩で、わたしの大好きな祈りの詩です。「いずるいき」、「いりきたるいき」と語るように、呼吸するのも苦しい状況でした。その中で、神を「おんちちうえ、おんちちうえ」と唱えて、呼び求めているのです。息すること自体が祈りでした。神を呼んでいる。苦しい息の中で、神を「父」と呼ぶ。それだけの詩です。

 キリスト教は祈りの宗教です。祈りする信仰です。むずかしい修行をしたり、むずかしい経典を勉強をしないと救われないという信仰ではありません。イエス・キリストは弟子たちに、祈る時にはこう言いなさいと言われて、「主の祈り」という短い祈りの文章を教えてくださいました。その最初の言葉が、神を「父よ」と呼ぶ呼びかけの言葉で始まります。この神を「父」と呼ぶことが祈りをすることで、これがキリスト教信仰の祈りの核心なのです。

 神を「父」と呼ぶ。この「父」という言葉は、主イエスが教えられたヘブライ語では「アッバ」という言葉でした。これは本来、幼児語だと言われています。パパ、おとうさん、という子どもの言葉です。山室軍平という人は「天のおとっつあん」と呼びました。主イエスは、神をそのように親しく、身近なお方として、あなたも呼んでごらん、と言われたのです。

 主イエスは、罪人のために十字架に架かって死んでくださいました。これを「贖い」と言います。主イエスがわたしたちの罪の身代わりとなってくださったのです。このキリストによって、天にいる全能の神が、わたしたちの父親となってくださいました。そして今、主イエスはわたしたちに「このように祈りなさい、呼びかけなさい」と言われているのです。

    「 声をあげ、主に向かって叫び

      声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。

         御前にわたしの悩みを注ぎ出し

      御前に苦しみを訴えよう。                」(詩編142:3,4)

 

 わたしたちは、主イエス・キリストに贖われ、導かれて、神を、お父さん、アッバと呼ぶのです。苦しい息の中でも、父よ、父なる神よ、と呼びかけてみてください。それが祈りです。その祈りの中で、キリストがわたしたちに寄り添ってくださいます。

 「天にいますお父さま。このように祈れと言われましたので、初めて神さまを『天の父』としてお呼びいたします。これから、このように祈ってまいります。」

8、「我らの父よ」…世界を包む祈り

 もう一度、「主の祈り」の呼びかけの言葉について記します。祈りは個人のものです。一人ひとり、神を見上げて、「我が父」(わたしの父よ)と呼びかけて祈るのです。一人ひとり、生ける真の神、主イエス・キリストを救い主と信じて、このキリストを「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ福音書20:28)と告白し、主イエスの父なる神を、「わたしの父」として信仰者として生きていくのです。祈りは個人のものです。一人ひとり、自分で自由に祈ってください。

 では、なぜ、主イエスは、「我らの父よ」と「我らの」と複数で教えられたのでしょうか。それは、祈りは、個人のものであると共に、共同体を形成するものでもあるのです。祈りは互いに支え合うためのものです。もう半世紀以上昔のこと、わたしの学生時代のことです。夏休みで久しぶりに郷里に帰り、母教会の祈祷会に出席しました。すでに祈りの集まりは始まっていました。そこで、わたしのために、名を上げてとりなしの祈りがなされていたのです。体がジーンと熱くなりました。忘れられない思い出です。

 祈りは、個人で祈ることはいうまでもありません。しかし同時に、神を信じる者たちが一緒に集まり、互いに祈りをもって支え合うためのものでもあるからです。主イエスはこう言われました。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:19-20)。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」。これは、教会成立の根拠となる御言葉です。つまり、教会とは、二人、三人が心を合わせて祈りする群れ、ということなのです。この祈りする共同体を念頭に置いて、主イエスは「我らの父よ」と祈りなさい、と勧められたのです。祈りは個人のものですが、同時に一緒に集まって、互いのことを覚えて、神に「とりなし」し、祈り合うのです。ここから、祈りは個人的な視点から解放されて、隣人へ、世界へと広がっていくのです。家族、身近な隣人、離れている同信の友、義の故に迫害されている者たち、世界に散らばる困窮者たち…、祈りは世界を包むのです。

 この隣人を覚えて祈るところから、「利他の祈り」と言っていいでしょうか、個人的な御利益追求の祈りから解放されるのです。何でも「欲しい、欲しい」という自己中心の祈りから解放されて、隣人の益、多くの人たちの益と祝福のために祈る者とされていくのです。

   「   わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。

      『あなたのうちに平和があるように』  」(詩編122:8)

 

 祈りは、個人の訴え、願い求めから始まります。しかし、二人、三人の人たちと共に祈るとき、祈りは自己中心から離れて、隣人を覚えて祈る祈り、神の恵みの支配、神の国を求める祈りに変えられていくのです。これが「我らの父よ」と祈る理由なのです。

 「わたしたちの父である神さま。わたしもまた、わたしのことだけでなく、隣人の苦しみと必要を覚えて、とりなし、支えることの出来る者とさせてください。」

9、「御名をあがめさせたまえ」

 今回は、「主の祈り」の最初の祈り(祈願)について考えたいと願っています。「主の祈り」の第1の祈願は、「願わくは、御名をあがめさせたまえ」という祈りの言葉です。どういう意味の言葉、どのような内容の祈り求めなのでしょうか。

 最初の「御名」とは、神の「お名前」という意味の言葉です。聖書の中には、神の名前(神名)がいろいろな言葉で表現されています。天地を造られた造り主、在りてある方、聖なる神、全能の主、そして、イエス・キリスト、これも神のお名前です。お一人の神ですが、いろいろな局面でこのように多様に呼ばれているのです。神の名は、神を指し示すと共に、「神の臨在そのもの」を表す言葉です。「御名を」とは、神を「あなた」と呼ぶことです。

 「御名をあがめさせたまえ」との祈りは、2つの意味を持っています。1つは、神を「正しく知る者とさせてください」の意味です。わたしたちが「あなた」と呼ぶ神を正しく知ることが、祈りの姿勢を整えるのです。わたしたちは、罪を処断する恐ろしい神に祈るのでしょうか。それとも、罪を赦して和解の手を差し伸べてくださる神に祈るのでしょうか。宗教改革者のカルヴァンという人は、わたしたちの人生の究極的な目的は「神を知ること」と言いました。聖書に啓示されている神とその恵みとをしっかり知ることです。そのために、わたしはこのホームページに「聖書と教理の解説」のページを設けました。ぜひ、お読みください。

    聖書の示す神は、天と地を造られた神で、わたしたちを愛のうちに形づくり、キリストによって罪から救い出してくださるお方です。このお方を、わたしたちは恐怖することなく、「あなた」と親しく呼んでよいのです。天地を造られた神が、わたしたちを愛してくださった。わたしたちの父なる神となってくださいました。ですから、わたしたちは神を本当に親しく「あなた、父よ」と呼んで祈るのです。これが「御名を知ること」で、神を信じることです。

 次に、「あがめさせたまえ」とは、神を礼拝させてくださいということです。神を知ることは、知識として神を理解するだけのことではありません。神を神として信じ、神を「我が主・我が神」として受け入れ、礼拝し従うことです。「主の祈り」の最初の祈りは、神の前に膝をかがめて、神を喜び、神を愛して、礼拝することを求める祈りだということです。神を神として礼拝させてください、という祈り求めです。

     「 ハレルヤ。主の僕らよ、

       主を賛美せよ

       主の御名を賛美せよ。

       今よりとこしえに

       主の御名がたたえられるように。  」(詩編113:1,2)

 

 キリストを信じる者の第1の務めは、神を礼拝することです。教会の礼拝とは、聖書の学びをするだけのことではなく、キリストを信じる者たちが集って心から「神を賛美し、あがめる」時なのです。

 「我らの父なる神さま。わたしも、キリストを我が救い主と信じて、神さまを賛美し、神を礼拝する者とさせてください」。

10、礼拝は神を賛美すること

  今回も「主の祈り」の最初の祈り、「願わくは、御名をあがめさせたまえ」についてお話しします。この祈りは(1)神を正しく知って、(2)神を礼拝することを求める祈りだと記しました。「礼拝」について、もう少し記すこととします。

 「礼拝」と言うと、多くの方は礼拝の中心は「説教」にあると考えます。確かに、今日の教会の礼拝では説教が大切な部分であることは言うまでもありません。牧師の務めの基本は説教にあります。神の言葉・福音を正しく宣べ伝えて、信じる者を起こし、信じた者に神の御心を伝えるのが「説教」です。

 しかし、礼拝の本質は説教ではありません。「御名をあがめる」とは、神に栄光を帰し、神を賛美することです。神賛美が礼拝の本質です。聖書では、地上の教会だけでなく、天上に移された者たちのあり方も礼拝として描かれています。ヨハネ黙示録では天上の教会の姿が礼拝として描かれています。神とキリストを賛美する姿です。そこでは説教はありません。必要がないのです。天上と地上の教会を貫く礼拝の本質は「神賛美」なのです。

 「また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。『玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。』四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した」(ヨハネ黙示録5:13-14)。

 「御名をあがめさせたまえ」とは、「神さま、あなたを賛美させてください」という意味の祈りなのです。現在の多くの教会の礼拝式では、賛美が付け足し、付録のようになっているのではないでしょうか。これは大きな間違いです。また、賛美は祈りでもあります。賛美と祈りは基本的に同じものです。祈りを詩の形にまとめたものが賛美歌です。賛美歌を歌うことは祈ることであり、神に捧げる神礼拝の中心なのだと言っていいでしょう。

      「  ハレルヤ。

         わたしの魂よ、主を賛美せよ。

         命のある限り、わたしは主を賛美し

         長らえる限り

         わたしの神にほめ歌をうたおう。 」(詩編146:1-2) 

 

 賛美歌を大きな声で歌ってみてください。調子がはずれてもいい。伴奏からずれてもかまいません。力一杯歌うと、アー賛美歌っていいなあ、と思います。実はそれだけでなく、賛美の声をしっかりと聴いて受け止めておられるお方がいるのです。賛美歌を歌うことは、神のおられることを認めて「神さま、あなたはすばらしい」と歌うことです。それが「御名をあがめること」です。わたしたちを愛してくださる神がいる。神は目に見えません。見えないけれど、神はわたしたちの賛美の声に耳を傾けて、聴いて、喜んでくださるのです。

 「父なる神さま。あなたは、イエス・キリストによって、わたしを罪と滅びの中から救い出してくださいました。心の底から力一杯、命ある限り、あなたを賛美させてください。」

11、「御国をきたらせたまえ」

 今回は「主の祈り」の第2の祈り「御国をきたらせたまえ」についてお話しします。この第2の祈りから、わたしたち自身に関わる願い求めになっています。

 「御国をきたらせたまえ」の「御国」とは、神の国のことです。「神の国」とは、どういうことでしょうか。主イエスは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ福音書6:20)と言われました。病み、貧しく、労苦する者たちに与えられる神の恵みが支配する国のことです。

 この御国「神の国」を巡って、いくつかの誤解があります。1つは、死んでから行く天国という誤解です。キリストを信じる者が天に召されます。そこも神の国ですが、それだけのことではありません。2つは、「ユートピア」的な誤解です。「ユートピア」とは夢想の国です。しかし、主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ福音書17:21)と言われました。神の国は現実の存在です。3つは、この世の領地や領土ではありません。イエスは「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ福音書18:36)と言われました。

 「御国・神の国」とは、神の恵みの支配のことです。福音書にはイエスのなさった恵みのみ業がたくさん記されています。百人隊長の僕を御言葉をもっていやしました。やもめの母親の一人息子を死人の中から生き返しました。悪霊に取り憑かれた男を解放しました。水腫の人をいやしました。ラザロを死人の中から復活させました。重い皮膚病を患う男が求めてきた時、「よろしい。清くなれ」(あなたを清めるのが、わたしの意志だ)と言っていやされました。主イエスは、悪霊の働きを止め、いやしと助けを求める者たちの祈り求めに応えられました。ここに神の恵みの支配があります。神の国は「ここにある」のです。

 「御国をきたらせたまえ」という祈りは、神の言葉と聖霊によって、わたしたちを支配し、神の恵みの中に活かしてください、という祈りです。「神よ、わたしのために力を振るって、わたしを救い、いやし、助けてください」、という主の恵みの支配を願い求める祈りなのです。率直に、大胆に、自分のための助けを願い求めていいのです。

    「  神に向かってわたしは声をあげ

       助けを求めて叫びます。

       神に向かってわたしは声をあげ

       神はわたしに耳を傾けてくださいます。 」(詩編77:2)

 

 主イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えた後に、「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ福音書11:9-10)と言われました。これは恵みの支配の保証の言葉です。

 「父なる神さま。わたしは今、心も体も深く病んでいます。あなたに助けを求める以外他に道はありません。どうか、わたしに目をとめ、わたしを救い、助け、いやしてください。」

12、隣人を覚える祈り

 主の祈り」の第2の祈り「御国をきたらせたまえ」について、続けてお話しします。「御国をきたらせたまえ」とは、神の恵みの支配を「わたしにも与えてください」と祈り願うことです。しかし同時に、この祈りは「隣人を覚える祈り」なのです。神の恵みの支配は「わたしだけ・自分だけ」で独占するものであってはならないのです。

 「御国をきたらせたまえ」とは、神の恵みの支配が多くの人に分け与えられ、救いにあずかる人が多く起こされて、神の国が完成しますように、と願うスケールの大きな祈りなのです。その意味で、この祈りは「伝道の祈り、福音宣教の祈り」と言うことも出来るのです。

 「祈り」というと、多くの人は自分のための幸福、自分の救いを求めることと理解するのではないでしょうか。しかし、キリスト教の祈りはまったく異なります。自分の必要のために祈ると共に、隣人の必要と救いのために祈るのです。主イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22:39)と教えました。隣人の必要・困窮、隣人の痛み、隣人の苦しみを覚えて、神に祈るのです。これを「とりなしの祈り」と言います。

 この場合の「隣人」は、同信のキリスト教の信徒たちだけではありません。キリストを知らない人たち、キリスト教の反対者・迫害者たちも「隣人」です。また、この「隣人」は、自分の身近にいる家族や知り合い、友人たちだけのことではありません。わたしたちに助けを求めている多くの人たち、国を追われ、難民となり、苦難を抱えて生きる人たちも、わたしたちの隣人なのです。わたしたちの視野に入ってくるすべての人たちが「隣人」であり、この隣人の救いと幸いのために、神の前に立って「とりなす」のです。

 「伝道」、「福音の宣教」と言うと、人を信仰に強制することのように思われます。そのように感じさせてしまうのは伝道の大失敗です。伝道は、ある宗教がしているような「折伏」ではありません。隣人に寄り添い、その労苦を共に担い、隣人の幸いと救いとを祈り求め、そのために具体的に奉仕する。これが伝道です。多くの悩みを抱えて生きる隣人たちが、この世の悪の霊の支配から解放されて真の自由を得て、キリストの恵みを知る者とさせてください、と祈るところから伝道が始まるのです。この祈りの中で「神の国」は成長していくのです。

   「  わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。

      『あなたのうちに平和があるように。』

                        わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。

      『あなたに幸いがあるように。』 (詩編122:8-9)

 

 主イエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えた後、「善きサマリア人」の例えを話し、その中で「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書10章)と命じました。祈りは、具体的に「奉仕」(ディアコニア)となって現れます。とりなしの祈りは隣人への奉仕となって現れてくるのです。祈りから始めましょう。

 「父なる神さま。わたしも、隣人のために、祈る者とさせてください。どうか、自分のことだけでなく、助けを必要としている多くの人のために、祈る者とさせてください。」

13、祈り、かつ働け

 「主の祈り」の第3の祈り、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」についてお話しします。この祈りは「神の御心」が、わたしたち人間の世界でも実現しますように、という祈りです。そして、その大前提が「御心が天になる」ということなのです。「天」とは神のおらせる世界、神の国です。父なる神がおられる天のみ国は、神ご自身が直接に御支配になっている世界ですから、神の恵み深いご意志が直接に表されている幸いな世界です。

 この祈りは、その恵み深い神のご意志が、天上の神の世界だけでなく、この地上の世界でも示されて、この地上の世界の中でも、神の御心と恵みが支配し、充満するようにという願い求めなのです。ここにあるのは、天と地の「隔絶」と言ってもいい悲しい現実です。天においては神の恵み、神の愛が充溢しています。ところが、わたしたちが住むこの地の世界では、たいへん悲しいことですが、まったく逆に、人の悪しき欲望と悪徳が支配するだけでなく、その背後には「悪の霊」・サタンの力が支配しているのです。

 主イエスは、この天と地の隔絶した世界を見ておられるのです。主イエスは、わたしたちの住む世界の悲しみと痛みとを知らないのではありません。経済的な格差が広がり、貧困が増大しています。互いに憎み合い、報復が当たり前の世界になっています。自分さえよければいいという自己中心の考え方が世界中に蔓延しています。人間の営みのすべてのレベルで、これらのことが当然となり、人を踏みつけて生きる世界になっています。まさに悪霊の支配する世界になってしまっているようです。

 しかし、このような世界も、本来は「神の造られた世界」なのです。主イエスは、天の御国から隔絶しているこの地の世界を放置するな、無関心であるな、と言われるのです。この地上の世界の悲しい現実の中でも、そこに「神の御心のなることを祈りなさい」と命じておられるのです。この地に神の愛と恵みが支配し、充満する世界を回復するために、「祈れ」と言われているのです。そのために、この祈りは「祈りすると共に、奉仕することが求められている」祈りなのです。「祈り、かつ働け」です。

   「  地の果てまで

      すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り

      国々の民が御前にひれ伏しますように。

      王権は主にあり、主は国々を治められます。  」(詩編22:28-29)

 

 この祈りは、この地に神の主権が確立することを祈り求める祈りです。神の主権の確立とは、この世の政治でキリスト教が支配力を確立して力を振るうというようなことでは決してありません。一人ひとりが、心の底から、生ける神を認め、悔い改めて、神に立ち帰るということによる霊的な「神の主権の確立」なのです。その意味で、この祈りは「伝道の祈り」なのです。一人ひとりの心の中に「神の恵み深い主権」が打ち立てられるように、祈ってまいりましょう。

 「父なる神さま。わたしの心があなたの恵みによって満たされますようにしてください。そして、あなたの慈愛が多くの人の心に満ち溢れるようにしてください。」

14、神の「御心」とは ?

 「主の祈り」の第3の祈り、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」について続けてお話しします。

 この祈りは、「神の御心」の実現のために祈ることが求められています。神の御心(神の意志)とは何でしょうか。神の御心を知るために、「聖書」を読み、聖書に学ぶのです。一人ひとり、聖書に神の御心を尋ね求めてください。実は、聖書の中で、神の御心はいろいろな形で多様に示されているのです。ここでは、基本的な「神の御心」を整理してお示しします。

 第1は、「十戒」において、わたしたち人間の基本的な生き方が示されています。これが「御心」です。神を信じて生きる道筋です。神の民の基本的な生き方・歩むべき道筋と言っていいでしょう。十戒は、出エジプト記20章に記されています。神を信じる者は、だれでも「このように生きるのだ」というものです。わたしたちの毎日の生活、日常の生活は、この十戒に示された神の御心に従って生きることです。

 第2は、一人ひとり、自分の歩みの中で「神の御心」を受け止めることです。神は一人ひとり、それぞれの人に固有の生涯を与えて、その歩みを通して、神の御心を実現するようにと召しておられます。一人ひとり固有の使命があるのです。信仰の歩みの中で、召しておられる神の御心を受け止めるのです。この信仰者として召されている生涯の中で受け止めるのが「職業召命」です。決して狭い意味での「職業」ではありません。人として生きる道筋・生活・生き方・仕事と言っていいでしょう。その中で御心を確信して、主と隣人に仕えて生きるのです。

 第3は、罪人を救う神の救済のご意志です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。神は、罪を犯して罪人となったものが滅びることを望んではおられません。堕落したそのところから、神は救いの道をご計画になり、キリストにおける十字架の贖いを準備してくださいました。このキリストを信じる者に救いの恵みが提供されています。このキリストの救いに、すべての人が、人種、民族、国籍、貧富・階層、性別、年齢など一切の分け隔てなく、招かれています。これが「福音宣教」の神のご意志です。この罪人を招く神のご意志を知って、御心のなることを祈り求めるのです。

     「  主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し

        あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ

        あなたの主権の栄光を告げ

        力強い御業について語りますように。 」(詩編145:10-11) 

 

 わたしたちは、多くの場合、「神の御心」と言うと、何か神秘的なものを考えてしまいがちです。しかし、基本は「十戒」に示されている規準に従い、一人ひとりがそれぞれの召し(生活・仕事)の中で神と隣人に仕えて生きることです。その生活の中で、罪人を招く神のご意志を知って、隣人の救いのために、祈り奉仕することが、「御心」の実現に生きることなのです。

 「父なる神さま。すべての人が、神を知ることが出来ますように。この世界に、神を知る知識が満ち、神の御心が活かされていきますように。」

15、「日用の糧」を祈り求める

 主イエスが教えられた「主の祈り」の第4の祈りに移ります。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」です。キリスト教の祈りについての誤解の1つに、神に祈るべき事柄は「精神的な高尚なこと」だけというような考え方があります。これは最も排除すべき考え方です。具体的な身近な生活の必要、物質的なこと、生きる悩みや病、わたしたちの生活のすべてについて、祈り求めていいのです。それが、この第4の祈りにはっきりと示されているのです。

 「日用の糧」とは多様な意味を含んだ言葉です。「今日の」、「日毎の」、「不可欠な」、「明日の」と言う意味をすべて含む言葉ですが、いずれにしても日常生活の必要に関わる事柄です。基本的には、わたしたちの肉体のいのちを保つために必要な毎日の食事が意味されています。そのため翻訳によっては「きょうのパンを…」と訳している場合もあります。「毎日の食事を、今日も明日も、いつでも与えてください」という祈りです。

 しかし、この「日用の糧」は食事・パンだけに限定するものではありません。宗教改革者のルターは、その著「小教理問答」の中で「食物、飲み物、着物、履き物、家屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、子ども、家庭、よい政府、気候、平和、健康、教育、名誉、親友などのような、身体の栄養や必要に関する一切のもの」とごく具体的に注釈して指摘しています。これらはルターの時代から見たものですが、いつの時代でも、わたしたちが落ち着いた信仰生活を送るために必要なものの一切が「日用の糧」という言葉に含められて、祈り求めなさい、言われているのです。

 これらの中で、とりわけ「よい政府」、「気候」、「平和」、「教育」などの社会的な事柄も祈り求めるべき「日用の糧」の中に含められていることに注意する必要があります。自分の生活さえ守られたら、それでいいということではありません。今日の言葉で言えば、政治についての関心、地球環境についての関心、教育・医療・福祉環境についての関心までも含める広い視野を持つ事柄が「日毎の必要」に含められているのです。

    「  二つのことをあなたに願います。

       わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。

       むなしいもの、偽りの言葉を

       わたしから遠ざけてください。

       貧しくもせず、金持ちにもせず

       わたしのために定められたパンで

       わたしを養ってください。        」(箴言30:7-8)

 

 わたしたちは心と精神だけで生きるのではありません。身体において生きるのです。この身体に関わる事柄こそ、わたしたちにとって心配の種です。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と言って思い悩むわたしたちに、このように祈りなさい、と言われたのです。

 「父なる神さま。身体と生活の必要で思い悩むわたしたちです。わたしたちが落ち着いた信仰生活を送るために、必要なすべてのものを与えてください。」

16、神に信頼して生きる祈り

 主イエスが教えてくださった「主の祈り」の第4の祈りの続きです。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」とは、具体的な悩みや病、わたしたちの生活の必要のすべてについて祈り求めなさいということです。ここでは、この祈りの背後にある事柄、神への信頼について記すこととします。

 この祈りの背景にあるのは、旧約の出エジプト記16章に記されているマナの出来事です。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている』」。当時、イスラエルの民は荒れ野で生活していました。食糧はありません。そこで神が直接、天からマナという食物を降らせるという奇跡的な方法で民を養われました。

 その時、神は2つのことを命じました。1つは、「毎日必要な分だけ集める」ことです。これは日毎の労働によって生きることです。2つは、「六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」、つまり「七日目は働くな」ということです。出エジプトしたイスラエルの民は、神が自分たちを今日も明日も養ってくださるという信仰に立って、毎日、その日その日の必要を収穫したのです。第六日は、いつも通りに集めるのですが、不思議に集めたものが二倍になっていたのです。それは「安息日」のためです。神を礼拝する日のための生活の必要は神が備えてくださったのです。安息日にもかかわらず収穫のために野原に出て行った人たちは「何も見つからなかった」。無収穫だったのです。

 この祈りは「わたしたちも働きます」という祈りです。「今夜のおかずはどうしよう」、「わたしの老後はどうなるだろう」と心配し思い悩みます。その中でわたしたちは働くのです。人は「顔に汗を流してパンを得る」(創世記3:19)のです。思い悩み、心遣いし、働きます。この労働によって生活の糧・パンが確保されるのです。

 しかし、そのような心遣いと労働も、神の祝福と恵みに支えられているのだということです。人は、心遣いし、計画し、労働して所得を得ます。しかし、それで終わりではありません。こう言っていいでしょう。「わたしたちは一生懸命働きます。どうか、それに祝福と実りを与えてください」という、神への信頼の祈りが求められているのだということです。神の祝福と恵みがなければ、一切は無益になるということです。

    「  御もとに隠れる人には

       豊かに食べ物をお与えください。

       子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。 」(詩編17:14)

 

 わたしの収入、わたしの所得は、決して自分の力のみによる勤労の実りではなく、神の祝福であり、神の贈り物であることを悟らせてください。わたしたちは祈りつつ、働くのです。祈りましょう。

 「父なる神さま。この世界はあなたのものです。恵みを与えてくださるあなたに信頼して、祈りつつ、労苦する者とさせてください。」

17、赦しの恵みに生きる

 主イエスが教えられた「主の祈り」の第5の祈りに入ります。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。この祈りは、キリスト教の信仰の核心部分が、ここにあると言って良い祈りです。

 この祈りの示す大切なことは「赦し合う」ということです。主イエス・キリストは、この1つの祈りの中で、2つのことを祈るようにと命じておられます。1つは「我らの罪を赦したまえ」と自らの罪の赦しを求めて祈れ、と言うことです。2つは「我らに罪を犯す者を赦すことが出来ますように」と隣人の罪の赦しを祈れ、ということです。この2つの祈りは密接に結びついています。神がわたしを赦してくださったことが分かるところで、わたしたちも赦し合うことができるのです。神の赦しの恵みが分かるところで、互いに赦し合うことが伴うのだということです。

 マタイ福音書18章21-35節をよく読んでください。ここに、1万タラントンという巨額な負債をゆるされた家来について記されています。ご主人である王とは神のことです。この家来とはわたしたち人間のことです。1万タラントンの負債こそ、神の前におけるわたしたちの罪の嵩(かさ)なのです。わたしたち人間は罪に罪を重ねて生きています。神はわたしたちが生涯かけても償いきれない負債・一万タラントンを免除してくださった。これが、イエス・キリストの十字架の贖いです。キリストによって、すべての罪が担われ、償われました。わたしたちは、この贖いの恵みを心から喜び、感謝をもって生きるのです。

 この祈りの言葉の中に「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」とあります。「如く」とは、どういう意味でしょう。わたしたちが隣人の罪を赦すことが、わたしが罪の赦しをいただける条件や根拠にでもなっているのでしょうか。決してそうではありません。聖書の学者たちは「『如く』とは、程度や類似を意味しない。真実と誠実さを意味する」と言います。つまり、神から赦しを受けた者の誠実さの問題だということです。わたしたちは、キリストの赦しの恵みの絶大な価値を、その広さ、高さ、深さにおいて、真実に受け止めているでしょうか。

     「  イスラエルよ、主を待ち望め。

        慈しみは主のもとに

        豊かな贖いも主のもとに。

        主は、イスラエルを

        すべての罪から贖ってくださる。 」(詩編130:7-8)

 

 キリスト教の信仰は倫理主義ではありません。自らが深く罪人であることを認め、罪の赦しを祈り求める信仰なのです。そして、キリストの十字架によってこの罪が贖われ、赦しが与えられていることを信じる信仰なのです。この基本的な信仰の在り方が分からない人には、キリスト教とは「分からないもの」に留まってしまいます。祈りましょう。

 「父なる神さま。どうか、罪人のわたしをお赦しください。この赦しの恵みの広さ、高さ、深さを本当に極みまで知る者とさせてください。」

18、互いに赦し合う祈り

 主イエスが教えられた「主の祈り」の第5の祈りは「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。この祈りが示す最も大切なことは、わたしたちが互いに「赦し合う」ことです。今日、「報復」が至るところで当然のこととされています。日本では殺人の罪を犯した者への報復処刑として「死刑」が当然のように考えられています。テロに対しては見境なく国家的な武力による報復をもって当然とされています。しかし、「報復」によっては何も終わらないのです。報復の連鎖を断ち切らねばなりません。この第5の祈りは報復の連鎖を断ち切る祈りなのです。

 前回、マタイ福音書18章に記されている1万タラントンの負債がゆるされた王の家来の物語が語り出されたリードの物語があります。弟子のペトロがイエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねたところから始まります。「仏の顔も3度まで」と言われます。許すことにも限界があるだろうというのです。それに対して、イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われて、1万タラントンの例えを語られたのです。限りなく許すのだと言われたのです。

 報復の根源にあるのは、自分は間違っていないという自我の主張と損害を受けたという感情でしょう。さらにその根底には、活ける神を認めない自己救済の思想があります。神が報いてくださるという視座が決定的に欠けているのです。聖書は「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書12:19-21)と記すのです。

     「  あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。

        あなたの記録に

        それが載っているではありませんか。

        あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。  」(詩編56:9)

 

 報復を思いとどまり、ゆるすことは、決して簡単なことではありません。しかし、報復することは、自分が神の立場に立って自分の主張を押し通すことです。その結果、際限のない報復合戦となり、殺し合いが続き、恨みが果てしなく残り続けます。「復讐するは我にあり」と言われる神の御手に委ねることが、この「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という祈りの精神なのです。神が、わたしたちの嘆きをしっかりと数えて神の記録に残し、わたしたちの溢れる涙は神の御手の中にある「革袋」の中に蓄えられているのです。終末における神の正しい公平な裁きがあることを信じて生きるのです。

 「父なる神さま。わたしたちの中にある報復の思いを沈めてください。神さま、あなたは敵をも愛するお方であることを覚えます。神の敵であったこのわたしが愛され、罪が赦されていることをしっかり悟らせてください。」

19、自分の弱さを自覚する

 主イエスが教えられた「主の祈り」の第6の祈りは、「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」です。「主の祈り」の最後の祈りです。この祈りは、キリストによって救われた者が求める聖化(信仰の成長)のための祈りと言っていいでしょう。

 この祈りの大前提は、キリスト信者を含めての「人間の弱さ」です。この世の多くの人たちは、キリストを信じるような者は神にすがらねばならない弱い人だと言います。そして自分たちは神に頼ることのない強い人間だと語ります。それに対して、多くのキリスト信者は「いや、自分は決して弱くない」と自己弁護しがちです。

 しかし、キリスト信者もなお罪人なのです。自分の内に在る罪の弱さを率直に自覚しなければなりません。貪欲、知識欲、出世欲、物欲、金銭欲、肉欲など、キリスト信者といえども例外ではありません。キリスト信者の中にもなお罪が残り、時には罪が勢いを盛り返して誘惑に屈する機会は多いのです。この事実をしっかり悟ることが大切です。「我らを試みに会わせず」という祈りは、キリスト信者の内に残る罪と弱さを知るところから出てくるのです。

 そして、キリスト信者を取り囲む社会は悪の霊が力を振るっている世界です。わたしたちはまことに弱く、一瞬さえも悪魔の力に対抗して自分自身の力で立ち得るものではありません。弱いわたしたちが、悪魔の力に対抗して「試み・誘惑」に戦いうることの出来るのは、「神の武具」を身に着ける以外ありません。神の武具は、御言葉と祈りと礼典です。これらが神がキリスト信者に与えてくださった霊的な武具であり、「恵みの手段」とも言われています。

 わたしたちの信仰が守られ、信仰者として霊的に成長していくために神が与えてくださった方法、手段です。「御言葉を熱心に読み、日毎に祈りを献げ、礼拝を忠実に守ること」です。この全体が広い意味での祈りの生活です。この祈りの生活が支えられて、信仰者として生かされていくのです。

  「  主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。

     御言葉をあるがままに理解させてください。

     わたしの嘆願が御前に達しますように。

     仰せのとおりにわたしを助け出してください。 」(詩編119:169-170)

 

 主イエス・キリストは、最後の晩餐の折りに弟子のペトロに言いました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ福音書22:31-32)と。ペトロも大きな試みに会い、主を3度否定するという挫折を経験しました。しかし、主イエスはこの挫折したペトロをお用いになるのです。信仰の失敗、挫折を恐れてはなりません。主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈って」いてくださいます。わたしたちは、この祈りに支えられているのです。

 「父なる神さま。罪深く、弱いわたしは、誘惑に敗れ、失敗を繰り返します。どうか、あなたに立ち帰る悔い改めの祈りをお与えください。」

20、誘惑との戦い

 主イエスが教えられた「主の祈り」の第6の祈り、「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」は「誘惑との戦い」の祈りと言っていいでしょう。「試み」と訳されている言葉は「誘惑」という言葉と同じです。新約聖書・マタイ福音書4章に、主イエス・キリストが悪魔の誘惑を退けた物語が記されています。今回は、この物語とのかかわりで、この祈りのことを記しましょう。

 主イエスは、洗礼を受けるとすぐに荒れ野で悪魔の誘惑を受けます。1つは、あなたが神の子なら、これらの石をパンにしてみろ、という誘惑です。経済的な救済の誘惑と言っていいでしょう。2つは、神殿の高い屋根の端に立たせて、あなたが神の子なら、飛び降りてみろ、という誘惑です。しるしを見せる誘惑です。3つは、高い山の上から街々の繁栄の姿を見せて、悪魔にひれ伏すなら、繁栄した街々を上げるという誘惑でした。権力の誘惑と言っていいでしょう。

 主イエスだけでなく、わたしたちも皆、このような誘惑に直面します。誘惑は実に多種多様です。しかし、悪魔は人を残酷に失敗させ、罪を犯させ、立ち上がることも出来なくさせてしまいます。究極的に、悪魔・サタンの狙いは人を神から引き離し、神の救いの計画を挫折させることにあります。わたしたちの信仰を動揺させ、滅ぼすことにあります。わたしたちは、この悪の力と戦わねばなりません。

 主イエスは「……と書いてある」と、御言葉に堅く立って悪魔の誘惑を退けました。これがわたしたちの信仰の戦いの在り方です。聖書をしっかり読んで、御言葉の知識を蓄えてください。そして「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることです。わたしたちはどれほど御言葉の知識に富んでも、なお弱いのです。ハイデルベルク信仰問答は、この祈りについて「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです」と記しています。

    「  あなたの重荷を主にゆだねよ

       主はあなたを支えてくださる。

       主は従う者を支え

       とこしえに動揺しないように計らってくださる。  」(詩編55:23)

 

 主イエスによってゲッセマネの園で、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マタイ福音書26:41)と言われた弟子たちも眠ってしまいました。わたしたちの内に住まれる聖霊の力だけが弱いわたしたちを力強く支えてくれるのです。祈りましょう。

 「父なる神さま。悪魔の誘惑に屈することのないようにしてください。また、誘惑に屈して挫折した時にも、なお再び立ち上がる力をお与えください」。

21、栄光は神にあれ

 主イエスが教えた「主の祈り」に導かれて祈りの道を学んできました。主の祈りの結びの言葉となりました。「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり アーメン」です。「頌栄」と呼ばれています。この部分は、主イエスが教えられた元々の「主の祈り」の言葉にはありません。後の教会の礼拝式の慣習の中で付加されたものです。司式者が主の祈りの本文を唱え、会衆がこの頌栄の言葉をもって応答したということから、やがて1つに結合して今日の形になったと言われています。

 この「頌栄」の意味することは神の主権の告白です。「国」とは神の国のことです。「力」とは神の支配のことです。「栄え」とは神の栄光のことです。神がおられて、歴史を支配し、栄光を現しておられるという神賛美の言葉です。しかし、わたしたちは毎日の生活の中で、いったいどこに神の国があるのかと、いぶかしく思います。周囲を見回すと悪魔の国としか思えないような事象ばかりです。神の支配よりも悪の力の方が上回っているように見えます。

 けれど、そのような事象の中で、うわべではどのように見えていても、神は活きて働いておられます。失望するような現実に抗して、「国と力と栄えとは」神のものである、という信仰の表明なのです。神がおられて、神が歴史を支配しておられるという視座と視線とを持つ時、わたしたちに神の支配と摂理の道筋が見えてまいります。

 祈るということは、満ち足りている状況からはなかなか出てきません。悲しみや嘆きの中から、貧しさと困窮の中から、打ちひしがれ、苦難の中から、迫害と逆境の中から、目の前の現実の力にあらがって、「神さま、助けてください」と、神の介入を叫び求めるのです。これが祈りの本質です。

 このため、使徒パウロはわたしたちの目を上に挙げることを命じるのです。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Ⅱコリント書4:18)と語り、さらに「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」(Ⅱコリント書5:7)と記しています。このような信仰の視座に立つ時の神賛美の言葉なのです。

     「  わたしたちではなく、主よ

        わたしたちではなく

        あなたの御名こそ、栄え輝きますように

        あなたの慈しみとまことによって。  」(詩編115:1)

 

 キリスト教の讃美歌集の中に「頌栄」、あるいは「讃栄」という賛美があります。讃美歌の中の讃美歌と言って良いものです。三位一体の神を賛美し、たたえる歌です。礼拝の初めの部分と終わりの部分に用いられます。礼拝の中ではいろいろなことが取り扱われますが、礼拝全体は徹底的に神賛美であるということを表しているのです。神の御名を賛美しましょう。

 「父なる神さま。わたしたちは目に見えることに一喜一憂します。しっかりと目を上に挙げさせてください。そして、あなたの栄光を見ることの出来る者とさせてください。」

22、キリストの名による祈り

 長い間、主イエスが教えられた「主の祈り」に基づいて祈りの道を学んできました。終わりに、いくつかのことを付け加えたいと思います。ここでは「キリストの名による祈り」について記します。今まで各回の末に「祈りの言葉」を記してきましたが、「キリストの名によって」とは記しませんでした。

 皆さまが、多くのキリスト信者の祈りの言葉を聞くと、必ずと言っていいでしょう、「主イエス・キリストの御名によって捧げます」、「主イエスの御名によって祈ります」というような言葉で祈りを閉じています。どういうことでしょう。ここに、キリスト信徒の祈りの特徴があるのです。わたしたちの祈りは、キリストを通して、キリストを介して、捧げられる祈りだからです。

 主イエスは弟子たちに繰り返し教えられました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ福音書14:13-14)。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ福音書16:23-24)。

 これらの主イエスのお言葉に従って、わたしたちは「主イエス・キリストの御名によって」祈りを捧げるのです。その理由は、(1)主イエスの勧めであるというだけでなく、(2)主イエスがわたしたちのとりなし手となってくださったからです。主イエスはわたしたちの大祭司となってくださいました。祭司の務めは、罪の贖いをすることと、執り成すことです。天に上げられた主イエスは、わたしたちの大祭司として、神の右に座して、今もわたしたちのためにとりなし続けていてくださいます。

 キリスト信徒の祈りは、ユダヤ教徒の祈りと異なります。同じ「天地を造られた神」を信じているのですが、レビ系の祭司制によるのではなく、イエス・キリストを永遠の大祭司として、このお方のとりなしで神に近づくのです。

     「  しかし、イエスは永遠に生きているので、

        変わることのない祭司職を持っておられるのです。

        それでまた、この方は常に生きていて、

        人々のために執り成しておられるので、

        御自分を通して神に近づく人たちを、

        完全に救うことがおできになります。  」(ヘブライ書7:24-25)

 

 わたしたちは無媒介に全能の神の前に立つのではありません。大祭司であり、神の御子であるお方を通して、このお方のとりなしを通して神に祈るのです。必ず聞かれます。

 「父なる神さま。わたしたちの祈りは、拙い、欠け多き、欲深い祈りですが、このような祈りが聴かれるのは、主の故であることを知り、感謝いたします。主イエスの御名によって、お捧げいたします。アーメン 」

23、「聖霊さま」の呼びかけ は?

 教会員たちから何度か尋ねられた質問です。「『聖霊さま、聖霊さま』と激しく叫んで祈る人たちがいますが、『あれは、ありですか』?」と。広いキリスト教界の中に、「聖霊さま」と呼んで祈り、激しく手足を動かすようなグループの人たちがいます。このようなグループの集会に出会って、普通の教会の信徒たちは驚くようです。現象に囚われず、ごく基本的なところから記してまいりましょう。

 祈りの呼びかけは、普通は「父なる神さま」と呼びかけます。三位一体の神、その第一位格の御父を指して「父なる神よ」と呼びかけます。これは神が、人となられた神の御子キリストに贖われ、キリストによって「神の子ら」となったわたしたちの「父」となってくださったからです。父なる神の唯一の永遠の御子である主イエス・キリストを「長兄」として、わたしたちも神の子らとされました。その特権の故に「父よ」と祈るのです。また、第一位格の御父は三位一体の神全体を代表してもおられます。

 では、他の位格への呼びかけは、なされないのでしょうか。決してそうではありません。わたしたちは、「主イエスよ」と呼びかけて、キリストに語りかけます。讃美歌を見てください。讃美歌の詞の文言は祈りの言葉なのです。「我がたましいを愛するイエスよ」、「我が主イエスよ、ひたすら祈り求む、愛をばまさせたまえ」。第二位格であるキリストへの呼びかけも、立派な祈りなのです。むしろ、心を込めて、親しく呼ぶことの出来る呼びかけの言葉でしょう。

 では、「聖霊」への呼びかけは異常なのでしょうか。第三位格の「聖霊なる神」への呼びかけも決して異常ではありません。「聖霊さま」という表現はあまりしませんが、神の霊、聖霊に呼びかけることは、古くから教会の伝統の中にあるのです。ペンテコステの時、「来ませ、御霊よ」と呼びかけます。「御霊よ、くだりて愛のほのお 冷えたるこころに もやしたまえ」と祈り求めます。わたしたちの霊的刷新を求めて、聖霊に呼びかけて聖霊に満たされることを祈り求めることは、大切な祈りの道筋、祈りの在り方なのです。

 大事なことは、キリスト教信仰の基本である「三位一体の神」を信じる信仰の道筋を誤らないことです。過剰な聖霊信仰はともすると感情的になり、人間的感性中心の信仰になっていきます。パウロは「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(Ⅰコリント書14:15)と記すのです。

     「  神よ、わたしの内に清い心を創造し

        新しく確かな霊を授けてください。

        御前からわたしを退けず

        あなたの聖なる霊を取り上げないでください。  」(詩編51:12-13)

 

 祈りにおいて「聖霊なる神」は大切なお方です。わたしたちが祈れない信仰の危機にある時に、わたしたちの内に内在して、祈りを導き、執り成し、回復してくださるお方なのです。

 「聖霊なる神よ。愚かな者を導き、悟りをお与えください。罪を犯し汚れたわたしをきよめ、キリストのしもべとして回復してください。主イエスの御名によってお祈りいたします。アーメン」

24、「祈りの式」としての礼拝

 今回は「祈りの共同性」ということについて記すこととします。どの宗教にもそれぞれ固有の祈りがあり、特有な祈りの形・型があります。キリスト教の祈りの特色として、祈りが共同体を形づくり、共同体として祈りするということです。

 主イエスは弟子たちにこのように言われました。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:19-20)。

 これはキリスト教会成立の根拠となる御言葉ですが、祈りと深く関わっています。二人、三人の複数の人たちが共に集まり、心を一つにして祈る祈りを、天におられる父なる神は応えてくださる。このような共に祈る共同体の中に「わたし(キリスト)もいる」と約束してくださいました。これがキリスト者の群れである「キリスト教会」の最も基本的な姿なのです。

 教会というと、大きなステンドグラスの会堂、パイプオルガンのある礼拝堂、整った組織と荘厳な礼拝式、などを考えてしまうでしょう。そして、このような教会の中で、時に人と人とのいざこざ、無味乾燥な礼拝式、失望や疎外などが起こってしまい、逃げ出してしまう人も出てくるのではないでしょうか。

 教会は、本来「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というところなのです。キリスト教の祈りは一人で完結するものではありません。「天にまします我らの父よ」と祈ります。「わたしの父よ」でもいいのですが、主イエスは「我らの父よ」と教えられました。最初から「共に祈る」祈りを教えてくださったのです。一緒にいる人たちと一緒に祈る。これがキリスト教の祈りの特色です。

 キリスト教会で最も大切な集会は「礼拝式」と呼ばれています。宗教改革者のカルヴァンという人は、この礼拝式を「祈りの式」と呼びました。礼拝式の中で祈りが捧げられるだけのことではなく、礼拝式の全体が神に捧げる「祈り」なのだという理解です。

     「  あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。

        主に逆らう者の天幕で長らえるよりは

        わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。  」(詩編84:11)

 

 この「オープンチャーチ牧場」を見てくださる方の中には、教会に失望している方もおられるかもしれません。あるいは近くに教会がないという方もおられるかもしれません。しかし、教会に集うことは大切なことです。1つの教会にこだわるのではなく、自分が落ち着いて集うことのできる教会を捜していいのです。毎週でなくても、年に1,2回でもいいですから、機会を見つけて教会の礼拝に実際に集ってみてください。みんなと一緒に神を賛美し、一緒に祈りを捧げ、一緒に聖書を学ぶ、このような経験を持ってくださるようにお願いします。

 「我らの父なる神さま。主イエスご自身が『わたしも共にいる』と約束された教会の礼拝に、わたしも身を置いて、共に祈りを捧げる者とさせてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン」

25、「アーメン」とは?

 今回は「主に祈り」の結びの言葉、「アーメン」について記すこととします。これで「主の祈り」の解説としての「祈りの水路」は閉講とします。ありがとうございました。

 キリスト信徒は、祈りの終わりに「アーメン」と言います。讃美歌の終わりにも「アーメン」と付け加えます。祈りと讃美歌は基本的に1つのものだからと言っていいでしょう。「アーメン」とは、元々ヘブライ語で「真実、本当、確かに、その通り」という意味の言葉です。わたしたちの祈りが、真実に、確かに聞かれているという「確信の表明」の言葉なのです。

 父なる神は、主権をもってこの世界を支配しておられます。わたしたちは、主イエスの贖いによって神の子らとさせていただきました。わたしたちを罪と悲惨の中から救い出すために、御子をさえ惜しまないお方は、わたしたちの捧げる祈りにしっかりと応えてくださいます。わたしたちの救いを完成させるために、わたしたちの歩みをしっかりと守っていてくださるお方です。わたしたちの真実の祈りを、真実をもって聴いておられます。

 主イエスご自身が「アーメンである方」と言われます。「アーメンである方、誠実で真実な証人」(ヨハネ黙示録3:14)。主イエスは、わたしたちの救いのための預言と契約を成就してくださいました。この主イエスにおいて神のすべての約束が「真実・アーメン」となったのです。神のすべての約束を成就してくださったお方が、わたしたちの仲保者、祈りの仲立ち、とりなしをしてくださるのです。

 わたしたちの祈りには、なお多くの弱さと罪がまとわりついています。エゴイスティクな願いや自己中心的な祈りもあります。欲望にまみれた祈り求めもあります。このようにわたしたちの祈りが、なぜ、神に聞かれるのでしょうか。それは、わたしたちの不真実な祈りが、真実な仲保者であるキリストのとりなしによって清められ、仲立ちされることによって、確かに聴かれる祈りとなるのです。

      「  命のある限り

         恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

         主の家にわたしは帰り

         生涯、そこにとどまるであろう。  」(詩編23:6)

 

 しばしば「祈っても無駄だ。聞かれない」と言われます。しかし、祈りは本当に不思議なものです。心の中にある思いや願いが長い時間をかけて次第に聴かれていくのです。祈りの実現を、わたしたちの時間枠で測ってはならないのです。祈ったことを忘れてしまった頃に、祈りが実現していることが分かってくるのです。また、祈りは必ずしも、自分が願ったとおりになるものではありません。しかし、やがて祈りが最もよい形で実現していることを知ることが出来ます。わたしたちが祈ることが出来ない時にも、わたしたちの内にいます聖霊が代わって祈り、わたしたちの祈りとしてくださいます。祈りは聴かれることを確信しましょう。長い間、お読みくださり、ありがとうございました。

 「父なる神さま。主イエスがわたしの祈りの仲保者であることを感謝いたします。拙く破れた祈りですが、キリストの故に、わたしの祈りをお聞きください。アーメン 」